恐れを超えた視界を習得して新しい世界に入る

恐れを超えた視界がある
例えばあなたが人を見るとき
正しく見えていない

様々な思考
その多くは自衛的、
つまり恐怖心から発生するものだ

見ていることに対して
「相手にどう思われているだろう?」とか
「周囲が変に思っているんじゃないか」とか
そういった他者に対しての自衛思考

人だけじゃなく物に対しても
「これは扱えるかな」「重そうだ」
「そういえばこういうことがあった」
など連想が繋がっていく
すべて不安からくるものだ

不安とはその対象が
「あなたと別の何かである」
という認識から必ず発生する
マインドのクセみたいなものだ

だが一切の感情は
その対象物とまるで関係がない
つまりあなたは視界を見ず
自分の思考を見ているのだ

一度多くの人々が行き交う繁華街で
「ただ見る」に意識を置いて
人を見てみなさい

色々な思考が浮かびそうになるが
それでも「ただ見る」のだ
何見てんだ?と
言いがかりをつけられそうだとかは考えない
何かを見据えている動物のように
なりきってみる

あなたが正しく見るとき

「見ること」という自覚を発見できる

それは本当にただ見ているだけであり
何の恐れも迷いもなく
ごく単純にただ見ているのだ

そしてその恐れを超えた視界で見ていると
どんどん視界が明るくなっていくことに
気がつくだろう
まばゆく明るい光が視界そのものを照らし出す
あなたはきっと驚くはずだ

色は鮮やかになり
とてもクリアだ

人生に迷った経験のある人の話で
「突然ぱーっと明るくなった感じがした」
と聞くことがある

それはまさに恐れを超えた視界を見たのだ
彼はあまりに視界を曇らせていた
何層もの思考というフィルターを通じて
世界を見ていたわけだから
ノーフィルター、
つまりノーマインドの視界には
さぞ感動したことだろう

初めは「私」に主眼を置きなさい
ここでの「私」は
エゴにならないから心配しなくていい
自覚を自覚するためのメソッドだ

恐れを超えた視界をみるには
「私が見ている」という意識が
トリガーになる

人や物をみるとき
「私が見ている」
「私が見ている」
「私が見ている」と
心の中で何度も唱えなさい
唱えながら見てみなさい

すると眼球が固定される
目の動きが止まる
人間というものは思考に支配されているとき
眼球が落ち着かない
いつもキョロキョロしている

身体は正直なのだ
あなたが思考に囚われているとき
「見ているはずなのに見えない、なぜだろう」
あなたの身体は迷いだす
だから眼球が視界を求めて動くのだよ

視界を見ず、思考を見ているとき
身体は反応を起こす
これは視界に限らずあらゆることで起こる
病気も緊張も同じ

だから「私が見ている」として
視界を定めるとき
あなたの眼球は迷わない
ただ一点を固定して動かなくなる

そしてその視界を感じている意識が
あなたの周囲に広がるのがわかる
そのときだ
あなたはそれまで生きていた世界とは
まったく別の世界に入り込んでいる

恐れを捨てて、ただ見なさい
たったそれだけのことだ

新しい世界にいるとき
そこは真っ新だと感じるだろう
それまでいた古い世界は
あなたの思考で塗りたくられていたのだ

新しい世界には
不安もないし予定もない
何かを計画することもない
時間もなければ
幸も不幸もない
ただあるがままの世界
つまりあなたに汚されていない
本当の「あなた」の手の中にいる

通勤途中も仕事中も
食事でもテレビを見ていてもだ
何をしていても
恐れを超えた視界を見るように努めなさい
最初は難しいかもしれない
それだけあなたは思考に毒されているからだ
だがコツをつかめるようになれば
それが定着する

つまり新しい世界で
暮らし始めるようになる

 


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  1. kala より:

    はじめまして。

    「恐怖を捨てて」について質問です。

    恐怖を捨てていたら、その恐怖がどんどん抑圧されて、いつかその溜まった恐怖を体験させるような出来事が起こるんじゃないか?といつも不安になり、恐怖や怒りなどの不快な思考感情を捨てられずにいます。

    でも、時がないなら、感情が溜まるということもないと思います。

    一瞬一瞬の選択をしていくだけかと思うのですが、どうもこの「抑圧しているといつか爆発する」「不快な感情を浄化しなければ、何とかしなければならない」みたいな思考にとらわれます。抑圧している感情がいつしか発散されるということはあるのでしょうか?また、恐怖などの不快な感情は癒さなければならないものですか?

    • -自分- 涅槃 より:

      kalaさん

      はじめまして。あらゆるネガティブな感情も出来事もすべてはひとつのものだ。ただあなたの中の辞書が「これは辛いもの」「怖いもの」と翻訳しているに過ぎない。

      ひとつのもの、とはあなたが何の気構えもなくいられる様子のこと。それはリラックスやハッピーと表現される。つまり、あなたは「これは恐怖だ」と気構えているから、そうなる。

      つまりそれは癒すものでも浄化するものでもないということだよ。家の柱の木目が人の顔に見えると言って、霊媒師に大金を払っているようなものだ。それは柱であり、さらにいえばそれがなければ家は倒壊する。

      捨てるのは柱の方ではなく、あなたの執着心だ。なぜそこに恐怖を見るのだろう?あなたの言う通り、そこに恐怖を「与え続ける」以上、それはさらに拡大するだろう。天井のシミも人の顔に見えるようになる。つまり何かがあなたに恐怖を与えているのではなく、あなたが与え続けているのだよ。そこに気がつく事だ。

      恐怖を「与えない」方法はただひとつ。正面から向き合うことだ。目を反らすからイメージが膨らむだけであり、ちゃんと見るだけでそれは自分がそのようにしていたものとわかるようになる。つまり「どうにかなる」ことがわかる。

      あなたの言う、恐怖を体験させるような出来事というのは、その対象物が起こすのではなく、あなたがあれもこれも目を反らすからそうなるのだ。

      覚えておきなさい。どんな物事も「あちら」からあなたに何かをしてきたことなど一度もない。たったの一度もなかった。あなたが「これは何かをされている」と作り上げていたのだよ。

  2. kala より:

    なるほど。向き合うとは、私が最も避ける行為。

    手探りでやってみます。ありがとうございます!

    • -自分- 涅槃 より:

      kalaさん

      現実は向き合ってしまえば、まったく怖くない。繰り返すが、どうにかすることができる、ということが「わかる」からだ。

      だが目を逸らしている以上、それがわからない。それがそこにあるのを知っているのに、その正体が特定されていない。ゆえに悪い意味での「可能性」がどんどん広がってしまうのだよ。

      それはそれでしかない。あなたは無限だが、それは単一のものだ。人はそれを難しくしているだけで、どんなことでも実は簡単なのだよ。

  3. M子 より:

    いつもありがとうございます。
    < 恐怖を「与えない」方法はただひとつ。正面から向き合うことだ
    正面から向き合うが わかりません。
    アドバイスをお願いします。

    • -自分- 涅槃 より:

      M子さん

      正面から向き合うということは、それをそのまま受け取るということだ。観念の世界に浸かっているほど、最初は勇気がいる。それが他人との関わりについてのことならば、その人を目前にしてあらゆる感情を通過させなければならない。だがその中に「芯」となるものを発見するだろう。

      怖がらずに面と向き合っていれば、必ず「あ、これか」と見つけることができる。それは非常に簡単なものだ。持ち運びもできるし、折り畳んだりもできる。つまり「あなたの好きなように扱えるもの」だ。

      これまであなたが「物事」について考えたとき、何かがずっと邪魔していた。それが事実を誇大させ、手に負えないものとしてあなたに映し出していた。だからそれを見破るのだよ。それが「正面から向き合う」となる。

      難しく考えなくていい。それを「難しく見よう」とする方が数倍難しかったのだから。ただし、「何が起きてもいいや」という心持ちで挑みなさい。すると「芯」はすぐに掴めるはずだ。

  4. 色即みっちゃん より:

    行くも覚悟…。

    退くも覚悟…。

    悟りを覚えると書き、覚悟…。

    腹を括るが覚悟…。

    そんな大層なもんではない…。

    それを受け入れれば良い…。

    弱い自分を認めるのも覚悟だよ…。

    • -自分- 涅槃 より:

      色即みっちゃんさん

      覚悟というのは、すべてを捨てた様子を意味する。マインドからすれば一大事だが、実はそうじゃない。「覚悟」ほど簡単なことはないのだよ。

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