不幸とは不幸のことではない

あなたは自分を
他の人々と”比べる”ことで
不公平や理不尽を感じたり
惨めさに打ちのめされたりする

だがいいかい
あなたの目の前に現れる他者の姿は
実在しないんだ

あなたが創り出している幻にすぎない

ゆえにありもしない
不公平や理不尽を背負って生きていることになる
だから自分と他人を比べて
どうこういうのはナンセンスなんだ

“向こう”には誰もいないのだからね

つまり不幸は不幸ではなかったわけで
あなたが本当に不幸になるときとは
他人と比較したときだけなんだ

“あなたのこの宇宙”には
あなたしかいないということ
これは絶対的な真実だから覚えおこう

現れる人たちは色々な手を使って
実在をほのめかすようなことをするが
騙されないようにしよう

釈迦はすべてが冗談のようなものと説いたが
それはまさにこのことにある

だからうまくいかなくたっていい
いまそれはそのようになっているだけなんだ

ただし前に進む気持ちは持ち続けること
そもそも前に進もうとしないこと自体が
不幸を不幸としていることなのだからね

 

 

 

 


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  1. buruku10 より:

    >> 何もうまく行かなくたっていい
    それはそのようになっているのだ
    だが前に進む気持ちは持ち続けなさい
    そもそも前に進もうとしないこと自体が
    不幸を不幸としていることなのだから

    この部分がとても好きです。これが全てじゃないか、と
    思います。
    数年前仕事で少しプログラムについて学びました。
    書かれたプログラムが少しづつ読み込まれてそれが
    液晶モニターに表示されていく、
    そんな世界に自分がいて、自分もコード中にいる。
    今まではコードの中で一生懸命コードを書き換え
    ようとしていたけど、書き換えようとする自分が
    コードとして何度も繰り返されていました。
    大切なのは同じコードを繰り返さないこと、
    例えそれが失敗であっても、一見無駄であるような
    出来事でも、それでも新しいコードを通過させる
    こと、そんな思いとマッチングした手記でした。
    ありがとうございます。

    • 涅槃の書-自分 より:

      buruku10さん

      >今まではコードの中で一生懸命コードを書き換えようとしていたけど、書き換えようとする自分がコードとして何度も繰り返されていました。大切なのは同じコードを繰り返さないこと、例えそれが失敗であっても、一見無駄であるような出来事でも、それでも新しいコードを通過させること、そんな思いとマッチングした手記でした。

      あなたは「自分という仕組み」にだんだん気づいている。それは同時に「この世の仕組み」でもあるんだ。

      社会学の観点からアプローチしてみれば、イデオロギー論の中心にあるのは「自分はなぜこの自分なのか」にある。

      たとえばあなたは2020年代の日本で暮らしているが、もう”それ自体”が強固な枠組みのなかにあることになる。

      あなたとアマゾンに現住するヤノマミ族とでは、たとえ同じ物事を経験しても、その事実の解釈がまったく異なったものとなる。あなたには単なる樹木や雨が、彼らにはそれが精霊にみえている。また生まれたばかりの赤子をシロアリに食わせて天に返したりもする。

      こうした「違い」は、通常自らの認識を”中心”にして、その比較で他をみることになる。当然ヤノマミ族の習慣や価値観は滑稽なものにみえる。

      だが”別の中心”からすれば、あなたもえらく滑稽なんだ。つまりヤノマミ族からすれば、日本の私たちは”人間”ですらない。

      じゃあ「何が滑稽でないのか」「どの中心が正しいのか」となるだろうけども、実はそんなものは「ない」んだ。

      この意味にこそ「宇宙には無数に中心がある」といわれる所以がある。

      言いかえれば、私たちそれぞれが宇宙の中心であり、それはつまり、各々が独自の宇宙を生み出しているということにある。

      だがここで注意しておかなければならないのは、いまこうしてヤノマミ族を考察しているとき、もうその考察が「己の宇宙のなか」で行われているということ、つまり「ヤノマミ族」の本当の姿を捉えることは不可能だということだ。

      ここにフランツ・ファノンやエドワード・サイードらが見出したポストコロニアリズムの論点がある。

      サイードは「西洋が西洋であるために、”東洋”という架空の領域を生み出している」と糾弾した。光を捉えるには闇が必要なように、ある新しい知識を生み出すとき、異質な他者(大体は負の要素として定義される)を同時に生み出していることになる。

      これは二項対立が生まれる典型的な原理であり、たとえば私たちが「貧しい国」をみているとき、もうその「貧しくみえる」ということがすでに自己の価値観に染められた視点であるわけで、それゆえに貧しい国を救おうとすることは、盲目的な押しつけにすぎないことになる。

      何かを認識するというのは、同時に「認識している己」も定義しているのであって、少し乱暴にいえば「自分という存在」を立てるために「困っている他人を”作り出して”」それを助けているようなものなんだ。

      だがより重要なのは、ファノンやサイードの議論(西洋中心主義、人間中心主義、植民地主義etc..への糾弾)さえも、それもまた西洋中心主義、人間中心主義、植民地主義の観点によるものだというパラドクスにある。

      もちろん彼はそのことを理解していたが、よって彼以降の思想家や人類学者たちは、人種問題やジェンダー問題など、より狭義のアイデンティティ問題を取り扱うときに「同じ罠に陥らないように」慎重な眼差しを獲得するようになった。

      つまり己はすでに宇宙の中心であり、何を問うにしても、その議題そのものにフォーカスするのではなく「なぜこの問題が存在しているのか」という枠組みそのものに注意を向けているわけだ。

      だがここで最大のハードルが出てくる。

      たとえば、2020年代の日本人であることやヤノマミ族であることは、自らで選んだものではないだろう。

      もう気がついたらそうなのであって、むしろ「気がついたらそうだった」ということにさえ、気づくこともない。

      それぐらいに自明で問答無用な枠組みのなかに「己はそもそも最初からいる」んだ。

      「貧しい国」とレッテルを張られた国の人々は、気づいたらその「貧しい国民」という枠組みにいた。それゆえにいま彼らは自分たちが「貧しい」と信じている。

      しかしレッテルを張られる以前には、この”想定された貧しさ”は存在しなかった。貧しさは豊かな人々に「作られた」わけだ。そうして豊かさを求めて反乱や戦争が起きたりする。奇妙な話だろう?

      だが私たちも彼らと同じように、他人や現実について日々心のなかで「反乱」を起こしてる。「許せない」とね。しかしその発端はなんだろう?

      なぜいつも不満足なのだろう?

      そしてまた、いまこのような議論をしていることからして、それはすでに「そのような枠組みのなかにいるから」であり、私もあなたもすでにプログラムのなかで騒いでいるにすぎない。

      先の思想家たちも「枠組み」についてそれを外側から議論するが、その”人生”こそがすでに枠組みのなかで進行している。

      こうして「箱の中の箱」が無限連鎖しているのが”私たち”の世界となる。

      もちろんそれぞれの箱が個々の宇宙であるけども、その箱は別の箱に内包されているのであり、だがその「己を内包している箱」もまた、”己の箱のなか”にある。

      たとえばあなたはどうして「スピリチュアル」や「自己啓発」に興味があるのだろう?

      それはその”枠組み”のなかで、あなたは生きているからだ。

      世界的なクラブチームで活躍するサッカー選手は、中学生が部活でサッカーをするのとはまったく違う枠組みにある。彼らにとって成績は死活問題であり、中学生が想定もしないようなところにいつも神経を働かせている。それが彼の「リアルな宇宙」だからだ。

      だがサッカーとは無縁の人からすれば、プロサッカーの世界とは、自らの宇宙のなかの一要素にすぎない。つまりサッカーで勝利することが、豪邸や美人女優に取り囲まれることにはならない。

      同様にあなたは「スピリチュアルや自己啓発を通じて現実を変化できる世界」に生きている。それがあなたにとって「当たり前」であるほど、現実はそのプロセスに沿って変化していくことになる。

      いいかい、”この話”は何度も読み返さなければならない。

      なぜなら魂の数だけ(宇宙の数だけ)、そのすべてに「完全なる真実」があるわけで、宇宙が変容すれば真実もまた変わるということがみえてくるからだ。むしろそれこそが「現実が変わる」ということの真髄にある。

      その観点において、スピリチュアルや自己啓発といった「内面を変容するもの」がいかに重要であるかがわかる。

      つまり枠組みのなかにいながら、既存の枠組みを構成しているプログラムにエラーを与えることで(規定された法則に従わないことで)書き換えることができるんだ。

      たとえばお決まりの感情に支配されないことがそうだけども、それには”意識的な努力”が必要だろう。言いかえれば、無意識であるからこそ同じ再生プログラムが繰り返されている。

      “書き換え”はプログラムの自己修復によるものだが、普段意識に上がっていないこと、つまり深層意識にあるデータがその書き換えに当てられる。だからこそ、日頃携わる情報や娯楽、思考や感情などが、すぐにそれらが変化を及ぼさなくとも重要となってくる。

      ゆえに現実変化は「自分」が捻り出して為すものではなく、世界の方が自ずと変化していくことになる。“日々の出来事”や”思いもよらぬ発想”としてね。

      つまり現代思想家たちが、人種問題やジェンダー問題について透徹した思考によってそれを解決しようとするが、だが本当に彼らがそれを解決したときのは、そういう事柄を「そもそも問題にしなくなったとき」にある。

      “その意味”で、彼らにしても慈善活動家にしても、目下の問題を追い続けることに人生の充足を感じて情熱を燃やしているが、それは一見「弱者を踏み台にしてるだけじゃないか」となるかもしれないが、そうではない。

      いつも話すように「この現実」というのは、背後に流れる「形なき潮流」を、私たちそれぞれが独自の形で置き換えたものにある。その「翻訳」こそが、各々の信念や潜在意識において成されている(=大きな絵)わけだ。つまりその弱者という”他者”は実在しない。己が弱者に陥ることがあってもね。

      だからどのような「現実」であれ、それと正面から向き合っているとき、その表面的な意味とは「まったく別の次元での充足」を得ていることになる。

      つまり「本当に大事」なのは、現実をいかに解決するかではなく、それに取り組んでみようという「ひたすら前進する意志そのもの」なのであって、それは大いなる流れとひとつにあるということなんだ。

      そしてまた、大いなる流れこそがこの現実を生み出す根本的な源泉であるのだから、調和するほどに古い世界は”忘れ去られ”、新しい世界が開いてくるようになる。

      「プログラムを超える」というのはこういうことなんだね。

      よって「何を信じるか」だけなんだ。強く信じてみること。ならばそれがあなたの人生プロジェクトとなる。

  2. moonriver より:

    コメント欄を含めて興味深い記事です。
    労働運動をしていると、「労働者」の待遇改善をしようと言う組合の論理と利益を最大化しようとする「資本家」の論理が対立する、と一見考えられますが、このような図式自体が「労働運動をするもの」の心の中にしか根拠が無いのであり、「労働者」(proletariat)とされたものは自分の事を政治学的な意味で「労働者」と考えたことも無かったりします。
    なので、労働運動をするものが「貴方は(我々)は搾取されているんだ!」等といっても、殆どは「ポカーン」とする訳ですね。
    ヤノマミ族の食人を「残酷だ!」と糾弾する西洋人みたいなもので、ヤノマミ族は食欲を満たすためにそれをしている訳ではなく、ある種の「神聖な宗教儀式」(この解釈もまた偏見かもしれませんが)をしている。
    労働運動と言うのは、そもそも西洋社会で始まったもので、その前提として「労働=忌まわしきもの」と言う観念があります。
    古代ギリシア人も労働は奴隷がやるものと考えたし、ユダヤ=キリスト教でも労働は楽園追放の結果罰として科されたものと言う観念があります。
    なので、労働時間を短縮するとか、労働からの解放と言うと、文脈上、素直に受けいられるのですが、日本人は神道の影響もあるのか、労働にネガティブイメージが余り無い。むしろ労働を神聖な義務と考えているので、「労働からの解放」みたいなことを言っても「何いってんだ?」とむしろ「逆―人権侵害」のように見なされます。
    (古事記には「スサノオが高天ケ原に行くとアマテラスオオミカミや天人が機織りの仕事をしていた」とあります。日本では神様も働くので人間も根っから勤勉)
    日本特有とも言われる「過労死」と言う現象も宗教行為だと考えると理解出来ます。
    それは嫌々やっているわけではなく、神々に褒め称えられるような、ある種の「栄光ある死」に繋がってくるからです。
    とは言え、そんなことを言っている私も日本人なのであり、何で自分だけ日本人から脱しているのかと言うと、究極の結論はこの世が私の夢だからなのでしょう。この世を体験している私は「日本人」とか「アメリカ人」と言う括りも超越している訳ですからね。
    この事を自覚すると、「労働運動」の性質も変わってくるような気がします。
    これまでは、私が労働運動をするために「救われるべき労働者」とか「啓蒙すべき他者」を作り出していた訳ですが、同じことをやってはいるんだけど、遊びに近い感覚でそれをやっていると言う違いがあるかと思います。
    子供の頃、鬼ごっこが凄く楽しかったのは、鬼が本当の鬼ではなく、役割であり、嘘っこだと知った上で楽しむから楽しいのと近いものがあるかもしれません。

    • moonriver より:

      また、蛇足ですが、ヤノマミ族の文化にも古代文化にも近代文明にも通底している何か、自我世界や文化相対主義を越えた何か、が全ての現象の背後に存在している。(そもそもフランス革命はヤノマミ族の文化の影響があると言う)
      それを信じて(包まれながら)活動していこうと思います。

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