恋愛サブリミナル

恋愛に限らず人間関係
人生では度々出会いが起こる
学校や職場
家族や友人
最近ではSNSかね

しかしだ

地球には70億人がいるらしいが
あなたが出会うのは
ほんの少しの人々

それについて不思議に思わないかね

なぜ70億人もいるのに
ほんの少ししか出会えないのだろう

世界を飛び回らないとしても
数分で数百人が行き交う
繁華街のスクランブル
あなたは交差点の真ん中で立ちすくむ

彼らは一体何者なのだろう?

よく眺めてみなさい
彼らは一体何者なのだろう?とね

あなたは「ヒト」という観念を持って
世界を眺めている
だから関わる対象が同じ「ヒト」であれば
自分自身の心情やパターンを重ね合わせて
相手を推測し、そこから距離を取った地点に
アイデンティティという碇を降ろす

「こう思われてるんじゃないかな」とか
「彼はきっとこういう意味で言ってるんだ」など

テーブルに置かれたコップに
「コップはきっとこう思っているはず」
なんてことは思わないが
相手がヒトならば
彼がそこにいようといまいと
あなたの中で妄想が起こり続ける

話を戻そう

70億人いるのに
生涯知り合うのは少しの人だけ

この妙な設定─

いつも書いていることだが
あなたが知覚するものは
知覚したから知覚したのであり
逆にいえば
知覚できないものは知覚できないのだ

何かが見えたなら
それは「見えたから見えた」
何かを知ったなら
それは「知ったから知った」となる

これまでのあなたは
「見ようとして見えた」
「知ろうとして知った」

つまり見えなければ
「見ようとしたが見えなかった」と
ならざるを得ない
だから希望と絶望を繰り返し
不幸を味わってきた

だが真実とは
「見えなかったから見えなかった」のだ
最初から「見えなかった」がそこにある

つまり何かを投げかけて
その応答を受け取っているのではないのだよ

最近のコメント欄にも書いたことだが
例えば、椅子が知覚できないものを
椅子が知覚できると思うかね?
できない、というよりも
椅子にとってそれは「ない話」となる

探ろうとして見つからなかったのではない
最初から「ない」のだよ
知覚できるから知覚できるのだ
それはあなたも同じ

つまり世界のすべては
あなたの心の中だということを意味している
あなたが見るもの触れるものしか
この世界には見るもの触れるものがないのだよ

 

無限=ゼロ

では70億人

本当に70億人のユニークな人々がいると思うのかね?
あなたの想像を超えた
あなたの完全に知らない
どこかの誰かがあなたにハッピーを運んでくれる
そんな人々が本当にいると思うのかい?

70億人と
これまで知り合えた少しの人々
その違いはなんだろう

人種も文化も性別も違うのだから
そりゃ違うだって?

本当に「違い」なんてあるのだろうか
あなたもどこか変だなと思っているのでは
ないかね

いいかい
1人でも70億人でも
同じ「知り合った」が起きただけだ

言い換えれば
相手の中身は全部同じ
つまりあなたは毎回
同じ相手と知り合っている

70億人どころか
1人すら、あなた以外の人間なんて
実在しないのだよ

男運がないという女性がいる

「出会った当初はみんなナイスガイだわ
でもすぐに本性が出てくる
そうして私はいつも捨てられる」

彼女は自分でその流れを
作り出しているのだ
そのように見るから見るのだよ
誰と出会おうとも中身は全部同じだ

「でもみんな顔が違うし
性格もそれぞれ違う」

それは誰がそう見ているのかね?
あなただ

覚えておきなさい
そこにいるのは
彼でも彼女でもない

「あなた」だ

つまりあなたの心
あなたは自分の心を
相手(らしき)対象を通じて観ている

だがあなたはこう言う
「でもみんな自分の予想外の言動をしますよ」

その予想外の言動を
見たり聞いたりしているのは誰かね?
あなただろう

「そこでそう来るの?」とあなたが感じるとき
そこにあるのは他人の言動ではない
「そこでそう来るの?」というあなたの心だ

 

本を読むということ

本に例えるとわかりやすい
そこにあるのは紙とインク
だがあなたは「内容」を読んでしまう

そこに10冊のタイトルがあれば
あなたにとっては10冊の別々の本だ

だが全部同じもの
紙とインク

つまり紙とインクを本棚に並べて
あなたは「さあどれを読もうかな」とする
それは非常に滑稽な様子だ
一体何を選ぼうとしているのだろう?

あなたは反論するだろう
「これは恋愛本ですよ、そしてこっちは推理もの!」

よろしい

大型書店で数十万冊の本を目の前にする
あなたはとてもワクワクする
さあどれから読もうか
棚に手を伸ばし「紙とインク」を手に取る

数時間経って、
どうやら「紙とインク」を読み終えたらしい
そしてまた別の「紙とインク」を開きだした

1つ目は「ポップな恋愛模様」
次は「初老探偵が活躍するミステリー」

あなたにはそのように見えている
そしてそれらに一喜一憂している

完全に没頭していて
向かいのベンチの私と猫には気が付かない
我々からすれば
あなたがずっと寝ぼけているように見える

何かに大笑いし
何かに怯え
何かに疑心暗鬼となり
何かに後悔をしている

書店の店員と話しているようだが
こちらからみれば
あなたは一人で立ち振る舞いをしている
相手の顔色を見たり
こうすればこう思われるだろうと算段したり

自分相手にあなたは一体何をしているのだろう?

 

そこにあるものとは?

内容とは情報のことだ
お金を例にあげるならば
紙幣や硬貨は物質
印字された数字も物質だ

だがそれだけでは
あなたの知っている「お金」とはならない
情報が付け加えられなければならない
つまり多いやら少ないやらの「価値」だ

情報は物質が持っているものではない
あなたが付け加えているのだよ

とある異性が通る
「おお、美人だな、イケメンだな」

それが情報だ

あなたは情報に囚われる
情報という幻想世界の囚人となる
しかもやっかいなのは
情報は自分で貼り付けているということだ
なぜ貼り付けるという流れになるかといえば
「いまそこで起こっているもの」が
見えていないからだよ

他人とは自分の心の姿
あなたが見た姿が
そこに見えている

「じゃあ本当の姿はどんなもの?」

それはあなたの心を投影しない対象、
つまり、そこには何もない、となる

 

2つの道

グルジェフというロシアの神秘家がいた
彼が追求した自己想起というものがある
本書でいう自己観照のことだ
ただし自己のつかない『観照』ではない
言葉などなんでもいいのだがね

彼は「自分がここにいる」と常に想起しなさい
そのように弟子に教えた

スピリチュアルの道は2つある

ひとつは自分自身が消え去ってしまい
ただ世界を眺めている「様子」
世界の起こりそのものになっている「様子」に
なって”いた”こと

もうひとつは
絶対的な主観の意識に移行することだ
つまり日常や人生で過ぎていくすべての物事
自分の思考や体の動き、感触や痛みに至るまで
まるでテレビ画面を見てるように
ただ眺めていること

この2つは相反している
だけどもあくまで「道」であり
最後にたどり着く先は同じだ

最初の道を「観照」という
自己意識が消え去っている
単なる表現になってしまうが、
あなたが死んだあと
あなたがおらずとも動いている世界のようなもの
交差点での信号機の点滅
四方から行き交う人々
そのすべてが渦巻いている空間そのもの
それに「なる」のではなく
「なっていた」「だった」しかない
ワンネスだ

マインドレベルからそちらへ移行するのは
とても難しい
マインドが移行しようとする時点で
逆行しているからだ

あなたの心が消滅したときに扉が開く
心が世界を見せているのだから
世界は世界ではなくなる
ただひとつの何かとなる

そしてもうひとつを「自己想起」という
自己を基点としてその起こりを観る
だが自己を日頃の「思考する自分」ではなく
「そこにあるもの」として見るようになる
自己想起の意識レベルでは
思考が「考えるという動き」をしない
描かれた単一の図柄のようになる

「考えること」が連続的で流動的なものではなく
足にモノが落ちたときの「痛っ」と同じく
シーンの要素のひとつとして見えるようになる

だから自己想起のポイントは
思考の見え方にある

思考を自分だとするのか
それとも思考をただ見ているのか
この意識の違いは大きい
なぜならば
あなたから不幸が一掃されるからだ

 

「考える」を選んで世界は作られる

あなたはいつも「考えている」のだ
考えていることが
その世界を作り出している

生活も異性も出会いも
すべてあなたが「考えること」から想起する
それを手放さないから
そこからの世界がループしていく
あなたが手に取って放していないだけだ

自己想起に在るときは
あなたは「考える」が「コップ」や「ペン」と
同じものだとわかる

つまり傑作ミステリーの本を手にとっても
思考がもたらす一切の判断や解釈
記憶の読み込みが起こらない

紙とインク‥その認識もなく
何かに「触れたこと」
何かが「起こること」

その関係性だけを
意味付けや理由付けもなく
察知しているようになる

情報という幻想が消えた
目覚めの境地となる

だから歩いているときも
自分は進んでおらず
体重の感じ
風景が過ぎていくという解釈もなく
ただ変わる光景
そういったあらゆる「関係性」に
包まれている感じ
その「感じ」を感じている

だから強面のチンピラがいようとも
殺人鬼がいようとも
可愛い異性が微笑みかけてきても
それら対象に対して何かを思考するのではなく
それらを生み出した根源である「種(心)」が
見えるようになる

重い荷物を手にぶら下げているとき
そこにあるのは痛みなどの刺激だけであり
それを「感じていること」だけとなる

あなたは

「こんなの家まで運べない」
「手がちぎれそう」
「自転車でくれば良かった」

など色々な思考を浮かべる
その思考から様々な夢を見る
それが現実という幻想

だが自己想起のレベルは
思考が連続的に変化しているものではなく
雨粒が肌に触れたように
ただそこに起きたもの、となる

 

やっと見つけた

恋愛の話から逸れてしまった
長くなったね

だからつまり
あなたはいつも自分と出会っているのだよ
70億人と知り合っても
どれも同じ展開となる
どれも同じ気持ちとなる

あなたがこれまで
「人間関係がうまくいかない」
という悩みを持っているなら

70億回繰り返すだろう

日本人の男とは合わないといって
西洋の男性を探したところで
まったく同じ状況になる

相手が良好な関係を持ってくるのでは
ないからだ

男運がない?
性格の悪い女ばかり巡り会う?
入る会社には嫌な上司ばかり?

いいかね
あなたがそう見るから見るのだ
そこにあるのは紙とインク
内容とはあなたが見ているもの

これを覚えておきなさい
誰と会っても

「また私じゃん!ハロー!」だ

そうしてサブリミナル、
つまり潜在意識が置き換わるだろう

あなたはあなたと恋をして
その恋が実るとき

「ああそうそう!これだったんだ!」

それを自分の中に見つけるだろう

 

disintegration

 
人々が行き交うスクランブルの真ん中で
誰かに声をかける

その瞬間に
その人はあなたの中に存在される

彼の名前や生い立ち
あらゆるものが
あなたを通じて、あなたの世界に起こる

 

やあ、”自分さん”
あなたから私は多くを学びます
この世界はすべて私なのだと
そういうことを学びます

青い空も
石ころも
言葉を交わした人たちも

ぜんぶ私だったのだと学びます
ありがとう
どういたしまして

いつも一緒にいてくれて
ありがとう

 


Notes , , , , , , , , ,

コメント・質疑応答

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  1. 爽やかハンサム より:

    目の前に現れた。

    凄い「模様」が目の前に現れた。
    しかも強烈な光線を放っている。
    こんなのは、そんじょそこらにはない逸品だ。
    うずいた。 豪華すぎる。

    これが「私」とパソコンの画面の
    「あいだにあるもの」だ。

    これが、わたしだ。

    しかし、そこには何もない。

  2. ワモノ より:

    「あいだにあるもの」・・・

    他人は自分
    机は自分
    石ころは自分
    世界は自分

    うーん、対象が自分というより対象に接したとき、触れたとき、見たとき、聴いたときの感じ、言葉にするのが難しいその感じが自分なのかなあ

    • 自分 -涅槃- より:

      >爽やかハンサムさん
      >ワモノさん

      そう、最初にあるのは
      その関係性だ

      立ってみなさい

      意識を向ければ
      足が体を支えていることがわかる

      つまりあなたの重さがわかる

      その重さ
      それは足でも床でもなく
      感覚的なものだ

      人と接するときも同じ

      印象を受け、そして印象を与え
      あなたはコミュニケーションをする
      その間柄

      言葉での表現としては
      そういうカタチのない関係性のようなもの
      それが意識の現れ方となる

      そしてヴィジョンとして形成され
      それがお馴染みの現実世界となる

      だから人や何かと関わるとき
      その対象を捉えるのではなく
      自分とその対象の関係性に意識を向けてみなさい

      そうするとき
      あなたは相手の言動に翻弄されることもなく
      その物体の性質に左右されることもなく
      本当にそこにある事実が明らかになる

      つまり、あなた自身を
      この世の真実を
      知るに至る

      不幸は終わる

  3. より:

    よく、目の前にいる、よく見知っている人と、ビルの最上階から見た点のような群像と、同じ人なのだろうかと、かんがえることがありますね。あと、自分の手で目玉をぐりぃって押すと、目の前の人や物の映像もグニャグニャに分裂して、形なるものがあるようでないようなものわかり、驚愕しますね。
    そうです。ここにあるものは、私の五感が生み出した映像です。
    しかし、視覚の歪みを見ている映写機以上のものがいるのも確か。
    私が五感ならば、五感の歪みは、ハルマゲトン並みの異常事態だが、冷静に「これは視覚の歪みだな」と認識しているのだから五感は私ではない。

  4. より:

    リアルに彫刻を作ると、本当の人間に見られているようにドキッとしたり、余りに美しいものが出来ると、恋心すら湧いてにて、ああ、これは俺が作った泥人形だったと気が付いて二度吃驚することがある。
    封を切る前の材料の段階の粘土にそんな感情は抱かないが、人と言う形や美人と言う形(情報)を乗せると、心が人と錯覚してしまい、結果、全ては自分の心の投影だったと気が付かせてくれるが、通常の人間関係でも、これと同じことをしているのだろう。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      その通り
      世界はあなたが見ているものだ
      それを人だとすれば
      それは人となる

      それを美しい異性だとすれば
      美しい異性となる

      だが「それをそうする」というステップはない
      それがそこに存在する時点で
      すでにそうしているのだ

      この話がわかるかね
      全部あなたの中なのだよ

      リアルな彫刻が本当の人間に見える
      それは他者の正体に気付いている
      だが、その彫刻ですら彫刻なのだ
      そして「リアルな彫刻が本当の人間に見える」という
      思考の起こり
      それすらもあなたが見ているものだ

      物質も思いも何もかもが
      あなたの中で起こっている

      つまり
      あなたが見ることをやめれば
      すべてはいなくなる

      どんなに苦痛な他者であれ
      どんなに苦悩な日々であれ

      すべてあなたのものだ

  5. 爽やかハンサム より:

    わたしは、「私」自身が幻想で、その中で行為しているのを観ていた。

    全く意味のない事をしているのを観ていた。

    一方、「幻想の中にいる私」は、「私」が「リアルに体験」していると思っている。

    さて、
    「それ」のコブみたいなものが起こる。
    それが「私」と「あなた」との、「間にあるもの」。

    しかし、「私」と「あなた」はいない。
    「私」と「椅子」もない。

    幻の「私」が、幻の「あなたと椅子」を創り出している。

    ここまでが幻想世界。

    それを違う次元から「それ」が観ている。

    幻の「私」が造ったものを「それ」が観ている?

    • 自分 -涅槃- より:

      爽やかハンサムさん

      例えばあなたが書いているコメント
      それは誰が書いているのだろう?

      あなたが書いている?
      それは違う
      その思考が生み出している
      思考はあなたではない

      では思考とはなんだろう?
      その場に浮かんだ絵柄のようなもの

      瞬間ごとに違う絵柄が起こる
      絵柄はあなたの知識にて解釈される

      では知識とはなんだ?
      それはあなたがこれまでに経験したもの
      その蓄積
      つまり外からきたもの

      さて
      どこにあなたがいるのだろう

  6. 梵天花 より:

    ご返事ありがとうございます。嬉しいです。

    世界にひとり、時々誰かにしがみつきたくなる孤独に襲われますが、昨日自分を観察していたらハートから鳩尾にかけてキューっとなっていました。私は私に恋してるようでした。

    第8の鍵読まさせいただきました。
    自分のではない声が頭の中に起きる事かしばしありますよね。
    気付き前は、慈愛、最近では般若心境会得しその中で遊べ、スピの本は要らない。などです。
    これらはエゴの声と区別は付くのですが、この人と結婚すると言う声が起こりました。同じ人に対して四年前と数日前の2回です。
    でも結婚はエゴかもしれない。シンクロする?半信半疑で四年たち、また数日前に結婚すると頭の中に。
    ここで半信半疑だと同じく繰り返すのでしょうか?

    • 自分 -涅槃- より:

      梵天花さん

      ある行動に駆られるとする
      そこに損得の意思がなく
      そこに主義主張がなければ
      それは流れということだ

      とんでもない被害を受けるかもしれない
      立ち直れない傷を負うかもしれない
      そういうことを考えている時点でエゴだ

      それすらも浮かばないとき
      つまり、椅子にすっと座るぐらいに
      簡単で当然で何の重みもない

      それが流れだよ

      あなたが疑問を抱えている時点で
      それはエゴのものだ

      あなたが私に質問をしないものがあるだろう
      疑問にすら思わないもの
      それが「流れ」となる

      ある異性と一緒になるとき
      ごく自然な流れに
      自分の心があるかどうかを見てみなさい

  7. 爽やかハンサム より:

    ①、それ
    「それ」が腰をくねらせて「コブ」を創る。
    それが「起こり」となる。

    ②、スピリット
    そのコブに含まれる「スピリット私」の翻訳によって物語が生まれて形が創造される。
    この時点で「それ」のタイムラグ。

    ③、それを認識している「私」。
    結果の世界。

    ④、オオソトガリ
    「それ」は、コブがどのようになったのかを「ウッシッシー」と観ている。

    • 自分 -涅槃- より:

      爽やかハンサムさん

      表現としてはそう書かざるを得ないが
      「それ」に段階はない

      つまり時間という縛りはなく
      ただドンとそこに広がっている

      常にいまだ

      右を見たら右がある
      だがそれは
      右を見たから右が現れたのではない
      「右を見たら右がある」のだよ

  8. より:

    会社辞めると言ったら「自分」に「なに考えてるんだ。現実見ろ」と反対されてしまいました。これも流れなのかな。
    つまり、会社を辞めれないと言う流れが続くようだ。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      辞めるときは
      あなたが考えるまでもなく辞めている

      つまり「辞めていた」

      それが流れだよ

  9. より:

    そう言うシーンがあったと言うこと。
    予想通り。繰り返される夢。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      繰り返しは
      同じ観念を持ち続けていることを意味している

      壊しなさい
      壊せば
      また新しい観念が生まれる
      ならばそれも壊しなさい

      そしてまた生まれる
      壊す

      生まれる
      壊す

      だが
      生まれる直前にある隙間が起こる

      それを見つけなさい

  10. より:

    確かに私は、既に概念の中に存在しています。
    目の前の植物のインテリアは、私の視界に現れている時点で既に植物のインテリアとしてあるし、テレビはテレビだし、外に出ると車は車として既に存在しています。
    気が付くと既に私は概念に取り囲まれて生きています。
    物の世界だけではなく、人との関係に置いても、職場では家庭内に投影された概念と同じ概念が投影されています。
    上司は父親との関係が再投影されているし、後輩には弟との関係が投影されています。
    女性には母親との関係が投影されます。
    年配者には祖父との関係が投影されます。
    それを繰り返しているだけです。
    70億の人類が居ても、私にあるのはこの4パターンなので、四人(4種族か)しかいないようなもので、しかもこの四人も、私の観念です。
    そう言えばユングが言う元型って、このサイトの思想(或いは東洋思想)からすると、非常に分かりやすい考えですね。

  11. 梵天花 より:

    自分さんの 仰る通りです。

    答えを求めた時点でエゴの罠の中でした。

    どうしても 求めてしまう。そんな自分を観ています。

    ありがとうございました。

    • 自分 -涅槃- より:

      梵天花さん

      まだ難しいかもしれないが
      エゴの罠の中にいるという解釈が
      すでにエゴの罠だ

      キーワードは「解釈」となる

      あなたが人生で起こるすべてを
      そのあるがままに受け流すこと

      無我夢中でいるとき

      そうあるとき
      あなたは消える
      それが本来の姿だよ

  12. より:

    流れは、自然にあるものでしょうか。エゴに許されることは自然に任せると言う態度のみなのかな。
    アファメーションとか引き寄せとかは不自然な介入でしかないのか
    アファメーションを唱えること自体が流れと言うこともあるのかな。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      あなたの生きている世界とは
      観念の集合体だ

      例えば母親がいる

      なぜ母親なのだろう?
      理由はいくつもあがる
      それが観念だ

      では街ですれちがった
      年下の女性はなぜ母親でないのだろう?
      それも観念だ

      だがあなたが
      その年下の女性が母親であるとすれば
      あなたの世界ではそれがデフォルトとなる

      たがあなたはこう思う
      「そんな世界に生きたら世間は私をサイコ野郎と思うだろう」

      いいかい
      その思いも観念だ

      空気を吸うことが恐ろしいことでもないから
      あなたは普通に空気を吸う
      だが大事なのは
      空気などありはしないということ

      あなたは空気を吸うこと、それが前提にある
      だから「空気」や「吸う」というカテゴリーが生まれる
      そこからどんどん枝分かれしていく

      流れについても同じ
      「流れ」というもの自体が観念だ

      Aという観念を持っていた
      だがBという観念を本書で知った
      あなたは迷う
      AなのかBなのか?
      その時点で「迷い」というCが生まれる

      ABCは観念だ

      では観念が起きているのはどこかね?

  13. わたし より:

    自分さん初めましてエリです。
    記事を読ませて頂いています。
    自分とは自分を含む自分以外の全てで、
    自分=世界だ
    だから自分を愛し、即ち自分を愛することは世界を愛するということ。
    出来事を良い悪いと判断せずただ眺める。そしてそれは愛なんだということ。

    自分が投げたボールを世界が返しているだけ。だから世界には自分しかいない。
    同じ事で、自分は自分の世界の神様で、過去に出会った人やこれこら出会う人、どんな人も自分の世界の住人だから、住人が何をしようと私の世界の責任で良いも悪いもなく俯瞰からみている。
    『そうなんだ』と。
    自分=世界なんだと分かると、人生が楽になりました。いきやすくなりました。
    人からどう思われるかより、ただ自分と世界を愛する事、心がこんなにおだやかで、世界がこんなに素晴らしい。そして自分と世界を愛せば、世界から素晴らしいプレゼントが降って来ることがわかりました。
    私の解釈はもしかすると違うかもしれません。でも私の観念を崩壊してくださって、全てに感謝しています。ありがとうございます。愛してます。

    • 自分 -涅槃- より:

      エリさん

      はじめまして
      あなたが本書に愛を送るということ
      それはあなた自身に送っているということだ

      世界のすべてを許してあげなさい
      すべては「あなた」と同じように
      どうすることもなく
      そこで流されるしかなく
      決められた環境の中で
      そこに置かれているしかないのだ

      あなたが付けた「意味」を見ることなく
      「存在」としてすべてを見るとき
      そこに愛が生まれる

      あなたの世界は愛にあふれる
      あなたへも愛が起こる

      ありがとう

  14. エリ より:

    ありがとうございます。
    あるがままを見て全てを許してみる。
    なんだ。すべては愛だったんですね。
    ありがたい。ただ、ありがたいです。
    言葉では伝え切れません。
    世界に感謝しています。
    幸せも不幸もないただ、愛がありました。

    • 自分 -涅槃- より:

      エリさん

      そう、愛だ
      世界にはそれしかない

      ただし
      あなたはまだ観念としての愛を見ている

      言葉での説明は限界があるがね、

      善や悪などどうでもいいほどに落ちて
      ただあなたの行動だけができる世界

      それが愛なのだよ

コメント・質疑応答

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