いつも危険でありなさい

そこにいる限り、ずっとそこだ
1年経っても50年経っても
あなたは同じ場所にいる

「そこ」とは
あなたの現在の価値観や判断のこと
一生を終えるとき
なんてつまらない人生だったのだろう
そう思いたくないのならば動き続けなさい

「これはたぶんこうなるから危険」
「こいつは私を利用しようとしている」
そういう詮索をやめるということだ

常に危なっかしく生きていきなさい
いつも違う場所にいるようにしなさい

思考を挟むことなく
到来した出来事に流れていく
マインドの計算を無視して
ただ素直に起こる出来事に身を委ねる

簡単なことだよ
それだけであなたの「生」は燃え上がる
これぞ「生きている!」だ

あなたは誰とでも知り合えるし
沢山の恋愛をするだろう
沢山のビジネスをするだろう
沢山の喜びや悲しみを体験するだろう

それが醍醐味というやつだ

 

 

 

 


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  1. 普通さん より:

    いや、そりゃ試練とか聞こえはいいけど、そりゃ「危険」は嫌ですよね。

  2. dimple1104 より:

    短い記事だけど、涙が出ました。ありがとう。

    • 涅槃の書-自分 より:

      dimple1104さん

      こちらこそありがとう。

      たとえば「危険」の対義語は「安全」だね。

      ところが「生きること」において、この意味は真反対に入れ替わるんだ。

      自転車でたとえてみようか。

      二輪の自転車が倒れずにいられるのは、もちろん走行しているときであり、自転車に乗り慣れている人からずれば、安定は「動き続けていること」によってなされることを知っている。

      もはやそれは動き続ける安定と己がひとつにあり「自転車に乗っている」という感覚さえないだろう。

      もちろん減速するほど不安定になり、よろよろして、やがて倒れてしまう。

      ところが、自転車に”乗れない人”は、自転車を走行させずに自分の力だけで支えて立たせている。

      そしてその重たい車体が常に意識されている。

      自転車に飛び乗って、その細いタイヤだけで直立させることなど怖くてできない。それは彼にとって「危険」な行為であり、だから安全を選択しているわけだ。

      ところがそうして自転車を押し歩いているゆえ、他のいろんなことに手が回らない。

      小さな用事も億劫となり、何かを実らせているわけでもないのに、いつも疲れ果てている。また自転車の重さが常にのしかかっているゆえ前へ進むこともためらうようになる。

      そうしているうちに、現実はどんどん危険な状態となっていくだろう。

      やらなければならないことをやり終えることができず、またいつも自分のことで一杯だから他人に優しくできない。心に余裕がなく、あちこちに気がとらわれて、なにを手にしてもそれに純粋に没頭できない。

      やがてそばにいてくれた人は離れ、健康を害し、ただ虚しいだけの人生が過ぎているようになる。かといって腰が重くて新しいことをはじめられない。

      すべてが「歩まない自分」の横を通り過ぎていく。

      言いかえれば、”自分を超えた力”から置き去りにされてしまうわけだ。

      つまり自転車の比喩は「この世そのもの」のことにある。

      生まれながらに私たちは自転車と不可分にある。だがそれを”乗りこなす”には、危険の向こうにある安定を見出さなければならないんだ。

      たとえば好きな人に思いを告白するというのもまた”危険な橋”だろう。だがその危険な橋を渡るからこそ、仮にそれが実を結んだならば、”その流れのまま”に、その相手との日々が送られるようになる。

      「恥をかきたくない、傷つきたくない」と自我の安全を選んで尻込みしてしまえば、当然ながらその相手との世界は存在しないことになる。

      だから自転車に”乗れる人”は、その危険が実は揺るぎない安定であることを知ってるわけで、自転車は人生の荷物とはならず、自転車の走行を通じて、流れるものとひとつになっている様子にある。

      その人はたとえ告白して振られたとしても、その流れるものが癒してくれるだろう。そしてそれは新しい出会いを出現させることにもなる。自転車が走行するかぎり風景はどんどん新しくなっていくからだ。

      つまり「危険に生きる」とは、たしかに自我的な安全を選択するのとは、真反対にある。

      だがこれまで自我が選択してきた「我が身の安全」は、本当に安定した人生をつかみ取ってきただろうか?

      もちろん自転車に飛び乗るというのは、無謀に生きろとか、人生を賭け事のようにしろという意味ではない。

      そうではなくて、たとえば人間関係なら、相手になにかを期待して接しないということだ。

      なにかを期待するのではなく、だからといって相手に無関心なのでもない。むしろその逆で、相手との共有する時間を損得を超えて楽しもうする意志にあること。

      そのとき、人生はまさに波乗りのように大きな力に支えられているようになる。そしてこれまでなかった素晴らしい風景をみせてくれるだろう。

      だから仕事もなんでもそう、結果にとらわれるのではなく、いつもその瞬間ごとのベストを尽くしていること。

      「意味がある」「意味がない」に左右されず、なにもないところに飛び込んでみること。

      それが「危険に生きる」であり、なによりそれは”本当のあなた自身を生きてる”ということなんだ。

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