頭だけが見えない

まず根本的に間違えていることを知る
何を間違えているのかといえば、全部だ

例えば自分の身体を見る
腕や胴体が見える

あなたは当然それが自分自身だとしているが
ではその腕や胴体が見えるのはなぜか?
その肉体の内部に入ったこともない
自分で細胞分裂や血液の循環、
内臓を動かしたこともない
爪は伸び、胃腸は勝手に消化を続け、
傷は修復される

さらにその辺に置かれた「物」や
自分以外の他人と同様に
離れた場所に自分の肉体を見るのは
どういうことだろう

あなたが腕ならば
腕であることを知ることはできない
だが見えてすらいる
つまり腕とは別のところから
腕を見ているということになる

頭?

あなたのその場所から頭は見えない
鏡に写した姿はあなたではなく鏡である
それも腕と同様、
あなたは鏡は見られるが
自身を見ることはできない

では頭はどこにある?
両手で頭らしきものを触ってみる
感触が伝わる

あなたはその「感触」でそれが頭であると定義する
過去の記憶やらイメージやらで
「これは頭だ」とする

いいかい、そこにあるのは頭じゃない
感触だ

つまり首から上のない光景をいつも見ながら
あなたは自分の人生というものを生きている
だけども腕も胴体も
あなたの視界に収まっている
そのシーンの一部
肉体、それはあなたではなかった
なぜならば、見えているからだ
その内部の様子すら知らない
見えるのは外側
見えるのは動き
すべてあなたの視界の中にある

あなたが唯一見ることができないものは
その頭
なぜ見ることができないのか

見えたら困るからだよ
すべてがバレてしまう
あなたが思い込まされてきた
その全てがデタラメだったことがわかってしまう

あなたがその認識の中から
首から上を切り落としたとき
理解に近付くだろう

そこには何もなかったのだ

よいかな?

この認識すら「デタラメ」であるということ
どこにも真実がないゆえに
すべてが真実であるということ
何もかもがただの思い込みであるということ
そういったことを見下ろす位置に立ちなさい

 


Notes , , , ,

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  1. より:

    なるほど。それもまた一つのフィクションとは言え、自分が実は首なし人間だったとすると、今までの人間としての自意識が解体して多少生きやすくなるかも

    • 自分 -涅槃- より:

      >>鯤さん
      悟りの境地とは
      人間的に理解していたすべてが
      まったく逆であったことを知ることの到達点のことだ

      あなたが歩く
      当然あなたは自分が進んでいるとする
      実際は風景が迫ってきている
      だがその事実を受け入れると

      あなたが進む
      風景がこちらに来る

      その両者が同時に起こるとき
      あなたは「一歩も動いていない」となる

      歩いているのに動いていない
      その矛盾
      これがマインドを超えた領域のことだ

      矛盾がただそこにある
      それが真実なのだよ

  2. ktx562 より:

    こんばんは

    また質問になってしまいますが、私は昔から認知言語学や神経科学、視覚科学や生理学、生物学などの科学が好きで、涅槃の書などを読むと”科学やオカルトをもって真理に迫ろうとすること”が自己の解放になることが分かるのですが、これが私の中に本書が現れたということになるのでしょうか?

    • 涅槃の書-自分 より:

      ktx562さん

      やあこんにちは。

      >”科学やオカルトをもって真理に迫ろうとすること”が自己の解放になることが分かるのですが、これが私の中に本書が現れたということになるのでしょうか?

      そうだね、それがあなたの「この人生での”手段”」となる。

      手段ということは当然をそれを生かして到達する目的があるわけだが、じゃあ人生の目的とはなんだろう?

      それはあなたが「そうして人生に出現させたもの」、つまりそれらを使って「最初のなにもなかった状態」に戻ることにある。

      哲学者は哲学によって、八百屋はその商売によって、恋する人はその恋によって、「この世」がなんであるのかを知っていく。

      もちろん手段(=道具)にこだわってしまい、それに囚われていては”本当の目的”に到達することはできない。

      逆にいえば、いまあなたを取り巻いているすべて(人や物事といった「存在」のすべて、”自分”の体や思考もそうだ)は「大いなる流れ」がそのように、その姿として、そのあり方として、”あなた”にだけそうみえているものだ。

      それはつまり、すべては大いなる流れの”翻訳”であり、だから仮にあなたがまったく別の世界を生きていても(違う興味や考えを持っていても)「本当にここにあるもの」は変わらない。

      だからあなたが学問について好奇心や探究心、躍動を感じるのは「本当にここにあるもの」とあなたが調和しているからにある。

      よく話していることだけども、先日に相談者の方へ回答したものを引いておこう。

      ──

      科学なんかは顕著だが、学問というのは「単なる翻訳」ゆえにその正当性は度々変わる。昔通用していたものがいまは通用しないのはよくある。

      よって知識に囚われているとその足場はみるみる崩れていくことになる。これを学問だけでなく、いろんなことに置き換えてみよう。商売や恋愛、人間関係などだね。

      もちろん私も「それ」を説明するために、一般に知られている科学的な説明を題材にする。

      だがもし数年後に脳科学なり物理学なりが「それまではまったくの間違いだった、こちらが新しい事実だ」と常識が変化したところで、私は単に、じゃあその新しい解釈をつかって「それ」を伝えるだけなんだ。

      「それ」は変わらない。翻訳の元となるものは同じなんだ。それがあなたや私の背後にいつもあるものだ。

      この意味をよく理解すること。あなたの探している鍵は案外シンプルなんだ。

      ──

      「人生の目的」とはなんであるのかがみえてきたね。

      それは形あるゴールではないばかりか、すでにゴールに立っていることに気づくことがゴールなのであり、すなわち、あなたが充足に包まれていること、それをそのままにあり続けることが、あなたがこの世に生まれてきた本当の意味、そして「意義ある”人間”の生」の実現となる。

      補足としていくつか加えておこう。

      ちょうど先日wamonoさんに「科学は探究するほどに科学自らの意義を失うパラドクスにある」という話をしたのだけども、実証科学もオカルティズム(占星術、錬金術、神学や宗教、スピリチュアルを含めたあらゆる神秘思想、非科学一般)も、どちらも「人間が作ったもの」であり(このことを見過ごしてはならない)、なにより科学もそもそもは「哲学」だった。

      これまでも様々な手記やコメント回答で話しているように「科学」という区別された概念が生まれたは17世紀以降のことで、さらに職業的な科学者が生まれたのはまだ100年程しか経っていない。それ以前の自然界への探究をする者はすべて「哲学者」だった。

      ──

      たとえばいまの自然科学の始祖である
      ニュートンは魔術的思考の持ち主だった

      よく話すことだが
      彼の興味は常に錬金術と占星術にあった
      だから現代人が占いを非科学的だと
      揶揄するのは転倒した様子にある

      “そんな彼”によって自動車や飛行機
      工業機械や様々な家電製品が生まれた
      またアインシュタインもインターネットも
      そのアイデアの源泉はニュートンがいたからだ

      しかしニュートンが科学の著書である
      「プリンキピア」を書いたのは
      非科学的な世界(人間の知性を超えた世界)を
      追求するためだった

      それゆえに彼の「発明自体」には
      いまの世の中のような
      八方塞がりに陥る矛盾がない

      彼には魔術的な俯瞰が常にあったからだが
      もちろん彼の発明に閉じ込められた人々は
      経済支配や戦争にそれを用いるようになったがね

      同様にコペルニクスの地動説を
      世に広めた天文学者ケプラーも
      占星術で生計を立てながら
      惑星の軌道や運動を計算していた

      だから太陽の周りを惑星が回っている等
      いまの私たちの常識的な天体の知識は
      魔術師によって”作られた定義”となる

      そして現代の宇宙物理学は
      その偉大な魔術師が生み出したピースのなかを
      ひたすら探求している様子にあるわけで
      それゆえにいつも難問に
      取り囲まれていることになる

      しかしニュートンもケプラーも
      ただ宇宙との照応のもとに
      人間世界にそれを「翻訳」しただけ

      大いなる流れを
      観念世界のひとつのバージョンとして
      映し出したにすぎない

      そこには自由に解放された伸びやかさがあり
      それに気づいたアインシュタインも
      最も美しいといわれる
      ごく短い数式でこの宇宙の構造を表現した

      それが「E=mc2」となる

      偉大なる魔術師

      ──

      ※また以下の手記も参考に
      ・宇宙の充足が幸福になるかそれとも災厄になるか

      さて、harsppy10さんのところでも触れているが、そもそも哲学というのは「内容」ではなく、その内容を生み出している「形式」をみることにある。つまり形而上学的アプローチがその原点にある。そうして枠組みの外に出て「世界の根本原理を探究する」ということだね。

      しかし”己”が探究する「世界」とはどこの世界のことだろう? もちろん「“己が知っている”この世」のことだ。

      つまり「世界の根本原理」とは「己が何者であるのか」ということの探究にある。それは言いかえれば、自己意識の空間がどのように成り立っているのかであり、そのための手段として哲学があるんだ。

      ところが哲学という概念もまた、己の知るもの(自己意識空間に存在するもの)であり、その意味で「哲学を議論させる」というのは、形式をみているのではなく、内容につかり込んでいる様子にある。

      たとえば古代ギリシアのソフィストたちをみてもわかるように、また釈迦が生きた時代の「六師外道」の思想(この世は四元素の集合にすぎないゆえ人を殺しても何の問題もない、など)にしても「議論」を重ねた末に自己都合的な考えを押し通すことに度々陥ってしまう。

      彼らは「いやいや俺たちは形式について語っているんだ」というだろう。

      たしかに内容ではなく形式をみなければならないが、それは形式そのものを外側から捕捉するということであり、形式に囚われるということではない。

      だが彼らは形式に囚われているのであって、形式に囚われているというのは内容に囚われているのと変わらない。形式のなかにある形式しかみえていないんだ。それは形式ではなく内容のことだ。

      これは釈迦の偶像禁止と同じであって、先日imorderさんのところで話したように

      ──

      なぜ釈迦は仏像を禁止したのかといえば、人々が「ああ仏様〜」と手を合わせて願い事をするようになるからにある。しかし釈迦が伝えていたのは「あなたこそが仏であり、世界のなかに放り込まれた己がいるのではなく、己のなかに世界があるんだよ」ということにあった。

      だからもし仏像なんてものを作ってしまったら、己の”外”に世界をみることになり、つまり教え(=バトン)が無価値となってしまうわけで、それを避けようとしたんだ。

      ──

      形式を”崇めてしまう”ことで「あなたの科学の見方よりも、私の考えている見方のほうが正しいと思います」とか「ある哲学者の考えはこうだった、だからその通りに実践しなければならない」とか、そんな誤ちに陥ることになる。

      学生がテストで点数を取るためならそれでいいが、だが科学や哲学が「教えている」のはそういうことではない。

      しかし学校で本当の意味で好成績を収めるにしても、やはり仏像を己のなかにみていなければならない。

      以前にLotusさんに回答した話がここで有効となる(あとで全文を読んでほしい)。

      ──

      よく話すように、この眼差しをもってはじめて勉学も仕事も恋愛も「実は同じひとつのものを示していること」がみえてくる。

      たとえばどのような学びも最終的には「極める」ことができる。

      だが「極める」というのは、その分野の”限界に達した”ということだ。白い紙の上に描かれた円、その円の輪郭線にたどり着いた。

      ではその円が真理なのだろうか。そうではないね。真理とは、こうして円が「描かれていること」そのものにある。

      いったい「どこに」円は描かれているのか。そしてこの円とはそもそもなんであるのか。

      こうして円の境界は「そもそも不要だった」ことに気づくわけだ。ゆえに己のなかで円の輪郭線は薄まり、円の内と外はまったく同じものだったと気づく。そのとき、己はそれをマスターしたことになる。

      もはやそれは「自然な呼吸」であり、何かを目指すものでも、何かを柱にするものでもない。それゆえに誰も追従ができない。あなたはあなたであり、他人がどれだけあなたの真似をしたところであなたそのものにはなれないのと同じ。

      たとえば子どもたちは「どうして勉強しなきゃならないの?」という疑問を持っている。

      親や学校は「将来的に待遇の良い職場にあり着くためだ」ということを前提に「その勉強がいつか役立つときが来る」と答えるが、それがいつなのかは答えることができない。そうして社会が差し出す回答とは「社会という円」の内側の整合にすぎないからだ。

      だが「円そのもの」を捉えているならば、子どもたちにこのように答えることができる。

      勉強するとは、その勉強が本当は「なんの意味も持っていないこと」を知るためであり、それを知るからこそ、勉強という概念、そしてこの現実のあらゆるすべてが、人間の思い込みの世界、創り出された円の「内側」にあることを悟ることにある、とね。

      経済学者のジョーンロビンソンがこう残している。「経済学を学ぶ理由は、経済学者に騙されないためです」

      まさにその通りであって、こうして「人間世界の真理」を悟るとき、その子は成績が向上するだろう。なぜなら実際よく勉強ができる生徒、スポーツのレベルが高い生徒というのは、その分野の内部、すなわち円の内側に意味や目的を追いかけているのではなく、円の外側からそれを捉えているからだ。

      大学は英語でユニヴァーシティというけども、その語源は宇宙ユニヴァースから来ている。この意味での宇宙とは多元世界のことであり、森羅万象のこと、つまり大学とは「無限の知識の宝庫」であることを示している。

      もちろんそのままでは、ただ満天の星空に圧倒されるばかりだから「自分なりの秩序」を見出さなければならない。

      ここに教養の真の意図がある。

      それは己の内面世界を「規律づけること」にあるわけだ。いってみれば自分の新しい人格を形成することであり、より高い意識を獲得することにある。つまり信念体系の変革であり、それによって己が体験する世界が変わるのだよ。

      大学ユニヴァーシティはそのきっかけを掴むために行くところであり、もちろん大学に通わずともいまの時代はいくらでもそれは可能となる。

      ここに人生の秘密を解き明かす最大のポイントがあるわけで、つまり「自分なりの秩序」を組織するとき、この「秩序」もまた、宇宙コスモスを意味しているのであって、すなわちユニヴァースからコスモス、大きな宇宙から小さな宇宙を見出すとき、今度は逆に己の内側から広大な宇宙(無限の可能性)への扉が開くんだ。

      だからこそ意味を先に持ってこないこと、それは円に閉じ込められた世界、温もりのない機械の世界のようなものだ。そうではなく、生のなかにあなたの宇宙を創り出さなければならない。

      温もりに満ちた世界をね。

      ──

      ゆえに哲学が探究するべき「世界」とは、結局のところ、自分自身の探究であり、つまり自我というものがすでにひとつの形式にあることを見極めることにある。「自分の思考の限界=この現実の限界」であるからだ。

      思考の限界とは、無自覚な解釈だけでなく「認識」もそうであり、演繹していく推論のバリエーションもそうである。

      “だから”こそ、心がそのまま現実として現れてくるんだ。

      たとえばあなたにとって好ましい人、好ましい光景、好ましい文章、逆にあなたにとって忌まわしい人、忌まわしい物事、様々あるけども、なぜ「そう」なのだろうか?

      それはすでに「自分」というみえない事前的な了解が敷かれているんだ。

      あなたはよくわかる思うことだけども、wamonoさんのところでも話したように、たとえばある科学理論の本があるとき、その著者の意図を知っているからこそ、その本の内容は意味を持つことになる。

      つまりその本がなんであるのかを知っていなければ、その内容が正しいのか誤っているのかもわからないし、そもそも意味を成している文章なのかもわからない。

      だからそれが呼吸のようにスラスラ読めるというのは、その書かれている内容を吟味する”以前”に、そもそもそれがなんであるのかを理解しているという了解が事前にあるからだ。

      一般にそれは読解力とも言われるけども、しかし同じこの類推でこの世を眺めてみたとき、いかに「事前的な了解」によって世界は制限され、またその了解のないものは、その察知すらない=存在すらできないことがわかる。

      たとえば日本語を知らない人が、文字ばかりの日本語の小説を開いたところで、そこには何も存在していないんだ。

      あなたは日本語が読めるからこそ、恋愛物語で涙したり、自己啓発書で胸を高まらせたり、科学書で知的興奮に燃えたりするわけで、それがそのまま「あなたの人生の中身」となっている。

      その意味であなたが新しい人との出会いがあったとき、最初は必ずあなたの知る色をその人に塗っていることになる。

      つまりいまもあなたの周囲に「透明人間」がたくさんいるんだ。”みえていないだけ”でね。

      そしてあなたが自分の持っているペンキをぶっかけたときに、赤い人、ピンクの人、青い人といった「輪郭」が露わとなる。そうしてあなたの世界がつくられる。

      ところがこの世界は「あなたが持っている色に限定される」ゆえに、その限界を超えた世界を体験することができない。あなたは自分の知らない色を知ることができないからだ。

      自分がいくら考えを巡らせたところで、自分を超えた考えには届かないのであって、だからこそ「自分」がそもそもどのように「成り立っているのか」から考える必要があるが、ただ普通に考えただけではだめであって(同じ色しか出てこない)、そこにたとえば「禅問答」の意図があるんだ。

      「思考の外側(己の現実の外側)」に飛び出すためには、意識を瞑想的な境地にいったん”解放リセット解放”する必要があるわけだね。

      ──

      いまそこで
      「すべてが同時に動いていること」を感じてみよう

      隣の部屋で家族が歩いていたり
      外の道路では車が青信号で発進していたり
      そんなイメージを浮かべてみようか

      普段ぎゅっと縛られている頭を緩めるようにして
      いわば「パー」になって
      全体とひとつに溶け合った感覚になってみる

      そうして
      同時進行ですべてが動いていること
      感じてみよう

      少し離れた駅前では
      大勢の人々が歩道を行き交っていたり
      その周辺の店ではコックやウエイトレスが
      慌ただしくお客の注文を取り次いでいるかもしれない

      遠く離れた異国であれ宇宙の果てであれ
      すべてが同時に動いてる

      呼吸もその全体のゆらぎに合わせてみようか
      そうしてどんどん溶け合っていこう

      水が水に消えていくように
      自分という区切りを薄めて
      全体の流れとひとつに調和してみよう

      そうやって溶け合いを深めていくと
      やがてイメージそのものが
      必要ではなくなってくるはずだ

      隣の部屋にいるのが誰で何をしているとか
      行き交っているのが大勢の人々だとか
      忙しい店内でウエイトレスが動き回ってるとか
      そういう具体的な姿ではなく
      「流れ」だけが感じられているようになる

      あなたを巻き込みながら
      すべてを変化させながら
      大きなうねりだけがここにある

      奇跡の世界

      ──

      すべてが同時に動いていることを直感するとき、あなたは科学や哲学や神秘思想が“それらの手段”を通じて伝えようとしている「それ」を発見する。

      この意味で神秘思想オカルティズム(ここでは宗教も含んでおこう)は二重の意図があることになる。それ自体が手段でありながら、より純粋に「それ」を示すものであるからだ。

      これもwamonoさんのところで話していることが参考となるだろう。

      ──

      科学を単に実証主義(水は100度で沸騰する等)としてではなく、どうして”科学的な認識という目”で現象を捉えているのかをたどれば、科学そのものの存在意義がとても危ういことになる。

      なぜなら「水が100度で沸騰する」というのは、その実証的な見解の以前に、前提としている概念の枠組みが敷かれているからだ。

      じゃあ「すべて人間が作ったものであって何の秘密もないのか」とがっくりしてはならないのは、むしろこうして人間が何もないところに物差しをつくって「大いなるもの」をみていることそのものに神秘があるからだ。

      というより「神秘」とはまさにそのことにある。

      私たちは”人間”であるがゆえ、つまり人間という概念の枠組みで「大いなるもの」をみているからこそ、時間や空間といったものが「存在」する。

      ここで大事なのは、私たちは「知らないことを知ることはできない」というパラドクスにある。

      これはあなたの現実世界もそうであり、あなたが知らないものは「たとえ目の前にあっても」それを認識することはできない。

      なぜならこの人間世界というのは「大いなるもの」を捉えているのではなく、物差しのほうを常にみているからだ。

      ──

      話したように「科学」も「非科学オカルト」も人間が作ったものであり、その道具を使って「最初の場所」に戻ることにある。だから科学よりもオカルトこそが真実だという話ではないし、その逆でもない。どちらも同じものだ。そして間違えてならないのは、その道具に飲まれないこと。本当の目的を見失わないことにある。

      その見失ってはならないものとは、あなたが感じている「好きだ」という気持ち、ひたむきな情熱や躍動そのものにある。だからゴールにあなたは到達しているわけで、むしろ”自分”がまったく違う方向をみていることはあっても、ゴールが私たちから離れたことなど一度もない。

      つまり”そのこと”に気づいているだけでいいんだ。

      ところであなたはいつも”同じ質問”をしているね。こちらこちら、その都度、私は”同じ回答”をしているわけだが、あなたは自らの確信をより強く確かめたいのかもしれない。

      だけども大丈夫だよ、あなたが「絶対こうであるはずだ」と信じていることが、必然的にあなたの人生での真実となるからだ。そして世界はあなたの信じているままに現れてくる。

      >これが私の中に本書が現れたということになるのでしょうか?

      まさに”その通り”。

      あなたが望む世界、素敵な毎日を創っていこう。

  3. ktx562 より:

    自分さん
    返信ありがとうございます
    何でもそうですが、色んな謎を追いかけている最中が最も楽しいです

    • 涅槃の書-自分 より:

      ktx562さん

      >何でもそうですが、色んな謎を追いかけている最中が最も楽しいです

      よいことだ。

      yuko216さんのところでも話したけども、すべては”あなたのなか”にある。

      それゆえあなたが探求するほど新しい発見がある。だけどもその発見にこだわってはならない。目的ではなく、目的に向かうその流れにこそ、その意義があるからだ。

      よってここに「なんでも楽しんでやるべきだ」という最大の技法があるんだ。

      たとえばわかりやすい話として、私の知人が害虫調査の小さな会社をやってるのだけども、朝に電話をかけてみればいつもゴーストバスターズなんかのテーマが後ろで流れている。(もちろんそれだけじゃないがね、大体はポップな80年代映画の音楽が流れてる)

      実はそれは以前に彼があまりに深刻に会社経営に頭を抱えていたゆえに私が提案したもので、あの映画ぐらいに力を抜いてやってみたらどうかというものだった。だがそうして「すべては冗談みたいなもの」という意識に彼が切り替えたとき、抱えていた問題がみるみる解消していった。

      業績は安定して、また同業者や取引先との波乱も自然に収まっていった。また苦しいときほど娯楽や暴食なんかに逃れようとするわけだが、その欲望も失せて、自分自身が毎日活動していること自体に彼は楽しんでいる。

      彼は映画好きだったこともあって(5畳ほどしかない小さなオフィスには映画のポスターがいろいろ飾ってある)BGM効果は絶大だったわけだが、だがこれは単に「その気になっている」だけではない。

      もちろん最初はそうだったろう。だけども「ある分岐」を超えたとき、その気になっただけの一時的なもので終わるか、またはそれが永続して「その通りの世界の住人」になるか、人生は分かれることになるんだ。

      その分岐を現実変容にしていくためには、病んだ自分を補助するための支えとして気分を変えてくれるものを使うのではなく、たとえば彼のようにそのBGMのなかで生き始めることが大事となる。

      つまり古い自分を完全に捨てて、その空いたスペースに新しい自分が生まれるようでなければならない。

      その意味で”稚拙”であってはならないが「子どものように純粋な心」は大人になっても大事だといえる。むしろ稚拙というのは、いい大人が子どものふりをしている様子のことであり、そこには自我が解放された純粋さがないんだ。無理した痛々しさやおぞましさが漂っている。

      古い自分を脱したあと、新しい自分が生まれることにはなんの努力も必要ない。なぜなら努力する自分がいないからであり、新しい自分は”自然に”生じてくることになる。

      つまりアリストテレスが残したように「自然は真空を嫌う」わけで、それを単に科学的な考察としてではなく「人間観念の原理」として理解するならば、古い自分がいなくなったその瞬間に、それまでなかった新しい出来事がその隙間を埋め得るように現れてくるんだ。新しい出来事=新しい自分の現れとなる。

      ここに「探求するほどどんどん新しい発見がある」の根拠がある。

      つまり発見されるものとは、その都度あなた自身が生み出しているのであって、ゆえに探求とは、もちろん目の前の物事を問うことにあるが、それは結局のところ「古い自分の信念を疑う」ということにほかならない。

      別の手記から引いておこう。

      ──

      科学は探求すればするほど
      新たな真実が出てくると話したけども
      それは出口のない迷路をさまよっているだけで
      「不幸そのものだ」というわけではない

      なぜならまったく同じ原理
      人生を充実させることができるからだ

      話したように
      「疑うこと」はあなたの創造する力を
      引き出すきっかけとなるが

      つまり大事なのは
      他人や物事に嫌疑をかけて
      「その証明のため」の望みもしない現実を
      生み出すことではなく
      前向きな意図をもって探求することにある

      すると同じく
      その返答を”“は返してくれる

      たとえばあなたは
      この現実そのものを”前向き”に疑い
      やがてスピリチュアルという分野を知り
      そしてその探求の果てに
      いまこうして涅槃の書が現れている

      私の活動が「いまのあなたの必要」として
      あなた“は自らに差し出したんだ
      (ここで”一者”を想起しておこう)

      つまり他人を疑うのは
      否定的な疑い、
      ネガティブを端にした創造であり
      本心としては知りたくもなかった事実
      ますます起きてくることになるが

      「探求」や「問いかけ」は肯定的な疑い、
      すなわち創造のポジティブな起因であり
      その”ポジティブな穴”を埋めるために
      胸を躍らせる「それまでなかったこと」
      起きてくるようになるんだ

      あなたのワーク

      ──

      この文中にある「一者を想起する」という箇所は特に重要なポイントであり、つまり”私たち”という無限の記憶の総体のなかで(すなわち”一者”のなかで)いくつかの記憶を集めてできたシャボン玉があなたという個的空間だということにある。

      まさに知人の小さなオフィスが、彼の現実空間であるようにね。

      ゆえにあなたが個的空間の内部の法則に縛られている限りは、新しい「出会い」がやってこない。

      つまり”新しい記憶”がやってきても、あなたの魂の厚い壁にそれらは跳ね返されてしまう。だけどもあなたが自らの壁に小さくとも穴を空けるとき、そこに新しい光が差し込んでくるんだ。

      しかしそうして現れたものがどれほどに新しいものであっても、それにこだわってしまえば、またどんどん古い自分が積み重なっていく。「壁の層の厚み」として固着していくことになる。

      ゆえに大事なのは、すでにある観念や概念の意味に囚われるのではなく「流れるもの」と「己の世界」が一致していることなんだ。

      それは言いかえれば、壁をもたない魂であり、より正しくいえば「より大きな魂」にシフトしたということにある。

      たとえばいまあなたは「自分と対立する世界」のなかで生きている。だが世界の動きそのものがあなた自身となる。そのとき、“世界のほう”から自分が体験する現実が変わる。すなわち人生を変えることができる。

      この”一致”こそが梵我一如とよばれるものであり、まさに「すべては冗談みたいなもの」を証明するように「この世」は新たに描き出されていくんだ。

      つまり私の知人は、ただ単にゴーストバスターズになり切っていたわけではない。

      あのポップなBGMに”ふと”心が軽くなった、まさにその軽さに自分を合わせていったんだ。

      彼はその「軽いなにか」を目の前の現実の背後に流れるものとして察知した。古い自分を捨ててその「躍動」とともにあり続けた。すると仕事の依頼の電話が鳴った、というわけだ。

      彼は驚いた。どうして心が軽くなっただけで電話が鳴るのか。苦境が脱せられたのか。

      これまでお金をかけて広告を打ち、その損益のラインにびくびくしながら電話を待っていた。そうしてはじめて仕事は得られるものだった。だから明らかにこれまでの因果法則や現実原則を超えている。いったいどういう経緯で己のところを顧客は選んだのかがわからない。

      そう、どれだけ考えてもその理由はわからない。もちろん探すだけ理由らしきものは出てくるだろう。やがてそのみつかったものが、彼の現実的な理由になるだろう。だが本当はそうじゃない。古い自分のみていた現実が変わっただけなんだ。

      つまり理由を確定化することは、古い自分を再び固めてしまうことにある。

      ゆえにこうして「この世は己である」という真実が彼には自明のことになっていくわけだが、それは古い自分を脱ぎ捨てながら、どんどん形態変化メタモルフォーズしていくその流れにこそ、”真の理由”が明白になるんだね。

      つまりあなたが探求に胸を躍らせているとき、それはもう、あなたがこの世の者ではないということなんだ。

  4. ktx562 より:

    自分さん
    返信ありがとうございます

    >理由を確定化することは、古い自分を再び固めてしまうことにある。

    よく問題解決能力が求められますが、そもそも問題は存在していなかったということに気付くことが重要だと思います。

    • 涅槃の書-自分 より:

      ktx562さん

      やあありがとう。

      >そもそも問題は存在していなかったということに気付くことが重要だと思います。

      そう、たとえば上でも話しているように、

      ──

      勉強するとは、その勉強が本当は「なんの意味も持っていないこと」を知るためであり、それを知るからこそ、勉強という概念、そしてこの現実のあらゆるすべてが、人間の思い込みの世界、創り出された円の「内側」にあることを悟ることにある、とね。

      ──

      問うはそれ自体が創造であり、苦悩や問題事というのは創造の一形態にすぎない。だから前向きなもの、すなわち人生の開拓や物事への情熱、発展も実は苦悩と「していることは同じ」にある。

      ゆえに「前向きに捉え直しても何も無意味だ、この苦悩をはやく解決しなければならない」とその原因について深刻になるのは、大いに誤っていることになる。

      むしろ、問題が解決した世界もまた、新しく創造されたものなんだ。

      だから苦しい時はそれを俯瞰して、”何もないところ”に自由に創り出していく意識の転換(つまり”苦悩する自分”からの離脱)が重要となる。

      ちょうどいま相談者の方に回答した内容がここでも役立つと思うので最後に引いておくよ。

      ──

      (心の内で溢れ続ける)言葉を俯瞰するとき、その言葉のなかの複雑で多難な論理構造から離脱して、まったくの安らいだ領域に飛び出すことができる。

      たとえそれがふとした一瞬であっても、その瞬間はあったんだ。

      その領域とはなんだろう? つまり台本を読まされたなかに出現する自分を演じるのではなく、台本そのものを外側から眺めているそのポジションこそが、キリスト教でなら「神の国」とよばれる場所であり、仏教なら「涅槃」となる。

      つまり言葉の川(形ある現実世界)を漂わせている、その根本にある”無形”の流れ続けているもの、これも手記などでよく表現しているところなら「大いなる流れ」「生命エネルギー」「愛」といったものだ。

      ゆえに神の国(天の国)はこの世と”同時”にあるわけで、そのことをより深く知っていくとき、”生も死も”台本のなかでのみ書かれているだけだとわかるようになる。

      つまりすべては茶番劇にすぎない。

      だがこの茶番こそが、この現実、あなたの人生なんだ。ゆえにその台本のルール(法則)に従わなければならない。人間は水面を歩けないし、他人に横暴を働けば嫌われるだろう。また罪も課せられるだろう。

      だけども、あなたが切り離されているならば「どのような現実」であろうとも、なにも恐れる必要がなくなるだろう。感情を表現している自分の姿があっても、それはただ演じられているものとして”あなた”は眺めている。

      さらにそうして台本(支流)を俯瞰していると、より早く「本流」に帰還することになる。そのとき、”あなたの世界”はそれまでありえなかった奇跡や出会いの到来が起こり始めるようになる。

      なぜなら、人間が知る限りの無限の可能性が本流にはあるからだ。

  5. ktx562 より:

    返信ありがとうございます

    事態を問題として見るというのは積み木を積み上げるようなものでしょうか?
    問題が生じた際には、作り上げた積み木の前提、土台、根幹となることを把握し、どのように全体像が積み上げられ、生成されたかを観察することがありますが、こうした観察を行っている時点で何もないところにいるのでしょうか?

コメント・質疑応答

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