確率というものを捨てると”いま”に入る

例えばあなたが30歳だとしよう
そこにいるまでの30年間
一度も食事を欠かすことなく
一度も寝床をなくすこともなく
生きてきたわけだ

その30年間、日数にして約1万日
食事や寝床を欠かすことなくやってきた
それは一体どれぐらいの確率なのだろう?
その肉体が生きるための必要な活動を
実に1万回もクリアしてきた
それも連続で

そりゃ食うに苦労したこともあるだろうし
眠らずに勉強や勤務をしてきたこともある
だがいまそこにいる
つまりノープロブレムだったということだ
確率などないのだよ

未来や将来
目先のことが不安でたまらないのなら
それは確率で物事を考えるからだ

繰り返すがね
確率などないのだよ

あなたが何をどう考えようが
全生命の循環はただ起こっていく
世界規模のグルーヴ
そのうねりが漠然とあるのみだ
シンクロニシティや奇跡、運命など
色々な言葉の表現はあれど
それらは人間の主観的な感覚が
前提となっている
「奇跡的な出会い」という言葉の背景には
好都合な個人的感情が含まれているし
マインドがしっかりと根を下ろしている

そうじゃなく
何もかもが「単なる現象」なのだよ

例えばあなたが昨夜の大掃除で
20年ぶりに開いた箱の中に
非常に懐かしい友達の写真を見た
翌日、会社からの出張で訪れた離れ小島
島に二軒しかないメシ屋で
あなたはラーメン屋‥ではなく
定食屋に入ることにした
上司と昨夜の懐かしい友人の写真の話で
盛り上がっていると
なんと隣の席にその友人が座っていた
あなたの会話を聞いて、もしや、と
声をかけてきたそうだ

こんな話はごまんとある
奇跡だ、シンクロニシティだ、
とするだろうが
それは確率を前提としているからだ

この世に「確率」とやらがなければ
あなたはどのように受けとるのだろう
そう、ただそのように起こっただけ
そこにあるのは奇跡でも喜びでもなく
単なる現象のみだ

確率が幻想であることを悟れば
過去もないことがわかる

定食屋に座るあなたの目の前に人がいる
それは「友人」であり「懐かしい」であり
「昨夜20年ぶりに開いた箱の中で‥」であり
あなたのその人に対する要素が
どんどん加えられていく
すべてそこにないものだ
そこにないものであなたは物事を対象化していく

そこにないもの、それを捨て去ると
あなたはカタチの次元から解放される
盲目になったり難聴になったりするのではなく
「常に」も「そこ」も
そうした指し示す表現も消えて
ただすべてが、

「現象」

となる

あなたの身体の動きですら現象、
その脳内を駆け巡る思考ですら現象、
重い物をぶら下げる腕の痛み
肌を貫く冷気
髪のべとつき
それらも、
重い物や腕や冷気があるのではなく
現象が起こっているのだ

あなたが現象を解釈付けるとき
それがカタチとなる
解釈は過去からの産物だ
過去という何やら
よくわからないゴミ箱の中から
汚れた紙切れを出してきて
「これは奇跡だ!」と自らを思い込ませる
あなたはそれ以外、判断する術を持たないから
そうなのだ、となる
つまり「判断」は「判断」を超えられない
野球とは野球というルールブックでのみ
カタチとなるのだ
これはセーフかアウトか
あなたが野球にいる以上、
それが「どちらか」を決めなければならない

どちらでもいい、という境地
すなわち野球を超えたとき
セーフもアウトも野球の中に
あったものだと理解できる
なぜその判断に
心血注いでいたのだろう?となる

目の前に人がいる
あなたは20年ぶりの友人だと思っている
あなたは昨夜箱の中から‥と思っている

本当にそうなのかね?

さらに尋ねるが
あなたの親や兄弟
彼らは本当に親や兄弟なのかね
あなたが「そうである」と
思い込んでいるのだよ

そこにある形状のある物体も
それがそのようであると
あなたが作り上げている

一度頭を空にして外を歩いてみなさい
ふと目を向けた先に
“ほんの一瞬の間”を置いてから
ガードレールや樹木が
そこに”あった”ことを察するだろう
全部あなたが作っているのだ

「いまの次元」に深く入り込んでいると
その”一瞬の間”の開きがどんどん長くなる
もちろん対象を対象として捉えていないから
それが何なのかはわからない
だがすべて「私の一面」であることだけはわかる
このどこまで広がる安堵感
ここに不幸も焦りも
やらなくてはならないこともない
何がどちらになろうが
それはそれなのだよ
すべて「私」なのだから

「昨夜」「大掃除」「20年ぶり」「箱の中」
「懐かしい」「写真」「翌日」「会社」「出張」
「島」「ラーメン屋」「定食屋」「上司」「話」
「友人」

知っておきなさい
これらはいま同時に起こっている
だから確率などなく過去もない
何がそこにあるのかといえば
単なる現象だ

「私」ではない<私>がすべてを起こしている
この<私>は個人的に制御する類いの存在ではなく
本来のあるべき場所のことだ
日頃あれこれ考えたりする「私」に誰もが囚われがちだが
それも現象だ

“水が気化する”

これだけのことなのだよ

 


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