不安を相手にしない生き方

あなたを取り巻くあらゆるすべては
何も実在せず
そしてそれを感じていると思っている
あなたすらいない

これは跳躍した「考え方」などではなく
日頃常識として思い込んでいることを
いかに崩していくかで
その真実、
つまり生命という本質が見えてくる

あなたが前へ一歩踏み出るとき
何が進んでいるのだろう?
前へ出るとき部屋の壁が前へ来る
一歩進めば
一歩風景が進んでくる

周囲を見渡してごらん
何かに目が向く
ガードレール?
ティッシュペーパー?
あなたがそれを見たとき
実際に見ているのは何だろう
ガードレールやティッシュが
あなたを捉えた、
そうも解釈できる

あなたが見たのか
対象が見たのか
この問答の末に到達するのは
どちらが「見てきた」のではなく
ただ「見たこと」が同時発生として
起こったということ

あなたの常識は主客を前提とする
つまり自分が見たのか
相手が見たのか、とね

そうではなく
その基準を崩しなさい

そこには「見た」だけがあり
誰も何も、見てもいないし
見られてもいない

前へ進むときも同じ
あなたが進んだのか
風景が進んできたのか

それはどちらでもない
何も進んでなどいないのだよ
歩いていると錯覚しているだけで
少し上の次元に意識をおけば
止まっていることがわかる

あなたの意識は常に静止している
動きという概念がないわけだから
静止という概念もない
動いても止まってもいない

味も音も感触も同じ
あなたが主体なのか
対象が主体なのか
それはどちらでもない

どちらでもないと受け入れたとき
そこにはなにもなかったことがわかる

ただ「起こった」のだ
何がそれらを起こらせたのだろうか
それこそが神秘であり宇宙なのだよ
つまり、あなただ

 

人生に不安を持ち込まない

さて本題だ

さっきまで普通だったのに
ふとしたことが切っ掛けで
突然不安な気持ちになったとしよう

何がその宇宙に起こったのかといえば
不安がそこに起こったということ

つまり「切っ掛け」は
後付けの「証言」でしかない
先も後もないが
ただそのモヤっとした
何かが起こったのだ

あなたはそれを「不安」とした
同時にカタチの次元で変容が起こる
それらはワンセット

「これを見たから思い出したんだ」

あなたはそのように解釈する
そうして人生が過ぎていく

「見る」の話と
照らし合わせてみればいい

あなたが何かを見たとき
そこには
「見えるものがあるから見えた」のだ
このシンプルで純粋な事実

あなたに見えるものは
見えるためにあった
それが本であれ仏像であれ、ね

不安やらの感情
それも同じ

不安がそこにあるから
不安を感じたのだよ

ここが大事なポイント

「そこにある」

あなたはいつもこう思っている
「私は不幸だ」
「私だけが不安でたまらない」
「他の人たちは気楽そうだ」

いいかね「不安」も「見えるもの」も
ただそこにあるのだよ

あなたはそれを受け取った
そして自分の奥深くに持ち込む
まるで「歩いているのは私だ」
とするようにね

そうじゃない
それが錯覚の元凶
「不安」とはその世界に起こった
単なるアクション

不安を感じるのは
不安がそこにあるから感じるのだ
何かが見えるのは
見えるものがそこにあるから見るのだ

つまり不安にしろ何にしろ
あなたが用意しているのだよ

必要なものだけを揃えなさい
いらないものは
そのままにしておきなさい

あなたがそこにいなくても世界は回る
それをイメージすることだ

つまりあなたが自分の心の中で
「自分だけに何かが起こっている」
ということはただの思い込みであり
あなたがいなくとも世界は動いている
この意味をよく理解しなさい

次回はその理解をさらに深めようか

 


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