悟りを開くとき

悟りという言葉を辿ると色々な人が登場する。イエスに釈迦にシヴァやクリシュナ、老子に臨済、白隠。スタイルはそれぞれ違うね。イエスは慈悲だし、臨済は問答だ。シャンカラや老子は宇宙との絡み、カトリックに大乗に道教にヒンドゥー教、華道に茶道、弓道、武道や舞踊や芸術。

これらの人々や宗教などは、現実が単なるフレームであることに気付くかどうかの道筋に過ぎない。つまり悟りとは彼らや教えを含め、目の前に広がるかりそめの世界を見破ることにある。

自由という扉

覚者はそこら中にいる。あなたから見て気の狂っているやつは大体そうだ。「将来が不安だ」というあなたをよそに、平気で莫大な借金をして店や会社をはじめる人もそうだし、日本一のホストやアイドルを目指して、何度も門を叩く少年少女もそう。人を人だと思っていないから全く恐れていないし、突然火が着いたように動き出すわ、無秩序に見えるわ、さらに大半が性格もひん曲がっているようにも感じるはずだ。

まるで歴代の禅師たちのようである。親鸞は僧の戒律を破り、肉を食らい妻帯していた。一休に至ってはセックスとアルコールの日々だ。「俺は美人の婬水を吸いまくるぜ」なんてロックンロールまで残している。つまり彼らは”人格のある僧”からすれば破戒僧となるのだが、そんなルール固持者などまるで眼中になく大悟していった。覚者に常識なんて通用しない。悟りとは常識の外側にあるのだから。

覚者だったとき

毎晩じっと夜空を観察して、本気で宇宙人から人類を守ろうとしてる男も、快楽殺人に溺れるシリアルキラーも、それに没頭しているときは”自分”が消滅している。見えているのは、そこに広がる素晴らしい世界だけであり、躊躇や恥じらいといったエゴの機能が作動していない。つまり殺人者も破天荒も”その間”だけは覚者なのだ。だが覚者である至福の瞬間と、自責の念に侵されるマインドタイムが交互に起こり、その苦悩が彼の雰囲気に浮き上がってくる。よって世間では狂人の扱いとなる。

脱サラして店を経営する人もそう。会社勤めの頃と違い、自営というのは自身の在り方を見つめない限り悪い波しか来ない。3ヶ月間売上げゼロなんてざらだ。さらに同業者やら税改正、流行の移り変わりなど、社会のあらゆるものが「敵」となる。やがて店の前を歩く通行人にすらも殺意が湧くようにもなる。どこまで正気を保てるかの根比べをしている経営者が多いが、焦る気持ちゆえに、細かいことに対応しようとするから持たないのだよ。

お金を得ようとする限り、客はお金を運んでこない。逆に求めない限り、世界は必要なものをあなたに与えてくれる。つまり自分という常識を捨て去らない限り、狂った世界から抜け出すことはできない。店を始めようとしていた頃の勢いはどこだ?アイドルを目指して門を叩いていたあの勢いはどこへ行ったのだろう?当時は好奇心溢れた光景だけが、その視野に広がっていたはずだ。

本来の姿へ

だがあなたは言う。「あの時は何も知らなかったんですよ。本当はこんな世界だなんて‥」そうして塞ぎ込んでいく。本当にそうだと思うのかね。あの頃にあなたはいなかった。だがいまはどす黒い顔でそこにいる。世界は何も変わっていないのだ。ただ”あなた”が現れたのだよ。

自分を忘れるほどに没頭するとき、世界だけがそこに起きている。だからマインド的な価値観や道徳観はありえない。それがとても個人的なこと─かわいい小物作りなどかもしれないし、人を傷付けることかもしれない。何がそうなるのかはあなたの資質による。

常識やら体裁に縛られないとき、あなたは本来備えていた自在性を思い出せるようになる。痛快で、ぶっ飛んでいて、地球そのものが家となる。それはマインドが求める自由のことではなく、木が木であるように、”あるがままである”という真の自由だ。

悟りとは何か

「おい」と言われて「はい」と応える中に悟りがある。なぜ声を掛けられたら、それに応えるのだろう?その間柄の背景に気付けば、あなたは覚者だ。自分も他者もおらず、ひとつの何かがここにある。ゆえにすべては繋がっており、自分が何かをするというものではないのだ。

禅に有名な話がある。

ドイツの哲学者オイゲンヘリゲルが日本に来たとき、弓の名人である阿波研造を尋ねて弓術を学んだ。阿波師範は「的を狙うのではダメだ。矢が勝手に的に向かっていくようにしなさい」ヘリゲルは全く理解できなかった。狙わずして的を射る?そんなことは不可能だ。ニッポンジン、クレイジー。

そしてある真夜中、阿波師範はヘリゲルを屋外の道場に呼んだ。真っ暗の道場で数十メートル先の的など肉眼では見えない。だが師範は無言で矢を2つ放った。1本目は的の中央、そして2本目も寸分の狂いもなく同じところ、つまり1本目の矢を粉砕していた。

師範はこう言ったそうだ。「目を閉じる。すると的は私の方へ近付いてくる。そして私と的はひとつとなる。ひとつになるということは、私自体が的の中心に在るということだ。矢は中心から出て中心に入るのだよ。それゆえ、あなたは的を狙わず自分自身を狙いなさい。誰が見て、誰が射るのか、それを悟りなさい」この教えの後、ヘリゲルは無の神髄に到達した。疑いを持つことも、思い煩うことも捨て、射るのではなく”射られる”ことを掴んだという。

無の境地

自分から求めず向こうから来させる、これは何をするにしてもどんな状況にあっても、忘れてはならない大原則だ。自分はおらず、相手もいない。そこにあるのは関係性だけであり、ゆえに「自分と相手」が浮かび上がっているのだ。だから見ていく方向を逆向きにする必要がある。

脱サラして店をはじめたときや、アイドル養成所に入った頃、それらは正しい向きにあった。あなたは自分自身に向かっていた。あらゆる「ありのまま」を受け入れる中で、それが違うものならやめれば良いだけだ。その世界は自然に消滅していっただろう。だがあなたは”自分”でそれを改変しようとした。世界に固執し「こうでなければならない」とまた凡夫へと成り下がっていったのだ。

あなたが現実を溶かしたいならば、誰々がどうだとか、あいつが何を言っただとか、私はこんな境遇だとか、そんな表面に囚われてはならない。「おい」と言われて「はい」と言うその間にあるもの、言葉を超えた背景にある”無”を捉えることだ。そこに触れるとき、いま見えている風景が瞬時に崩れ去ることを経験するだろう。すべては自分がそのように見ていただけだったのだと気が付くのだよ。


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  1. 色即みっちゃん より:

    阿吽の呼吸…。

    始まりと終わりは同時にある…。

  2. 色即みっちゃん より:

    常識も非常識も囚われた心…。

    是も非もあらず…。

    • 色即みっちゃん より:

      信心…。

      狙う的はそこにある…。

    • -自分- 涅槃 より:

      色即みっちゃんさん

      そう、狙う的は”ここ”だ
      あなたの中にあるのだよ

      出口は外ではなく
      内にあるのだ

    • 色即みっちゃん より:

      的は無に浮かんだ幻想…。

      弓を射るもまた、無に浮かんだ幻想…。

      的も行為も全て心にありました…。

    • -自分- 涅槃 より:

      色即みっちゃんさん

      そう、そこには何もない
      何かがあると思い込んでいるゆえに
      現実が見えている

  3. ONEPOINT より:

    仕事柄チェーンソーを扱うことが多いのですが
    スムーズに切れるときは自分は何もせずに
    チェーンソーの重さに任せている時です。
    力まかせに切ろうとすると切り口が汚くなったり刃が傷みやすくなる。
    もちろん材質によっても切りやすさは変わってきますし
    刃の目立てがきちんと施されている必要がありますが。

    また趣味でやっている合気道も上手く投げられる時は
    「何もしていない時」なのですよね。
    投げようとした途端に投げられなくなる。

    なんとも面白い話ですよね。

    • -自分- 涅槃 より:

      ONEPOINTさん
      いつも良い話を持ってきてくれてありがとう

      >「何もしていない時」なのですよね。
      逆にいえば「自分」がいつも邪魔をしているのだ
      自然の法則はいつもそこで流れている

      木材やチェーンソーの刃についても
      そこにあなたが気が付く時とは
      ごく自然な様子なのだよ
      それは行為ではない

      タオに委ねるとき
      あらゆる苦悩は消滅となる

  4. 素人 より:

    競馬にはビギナーズラックということがありますが、
    そういえばただただ始めたての時は競馬場の雰囲気や馬の勇姿に夢中になっていて勝敗を求めていなかった気がしますが、当たるを求めに行くとことごとくうまくいかなかったなぁ

    • -自分- 涅槃 より:

      素人さん

      求めるとだめだよ
      求めないからビギナーズラックだ

      ついでに書いておくが
      今回の弓道の話はそれとは違う
      この話は主体としてのアプローチ
      ビギナーズラックとは受容を意味する

      どちらも到達する先は同じだが真逆にある
      あなたのタイプがあるゆえ
      これまでを振り返ってみると良いだろう

      先日の手記でも書いたが
      ミーラという覚者は歌い踊っていた
      釈迦は静かに座っていた
      彼らは自己を捨てた受容の人だ
      松尾芭蕉、マハラジなどもそう

      逆にマハーヴィーラやグルジェフは
      自己を徹底的に起こしていた
      つまり主体の人だった
      宮本武蔵やプルチェンコなど
      プレイヤーとして在る人々がそうだ

      ギャンブルに於いては
      ポーカーなどは主体的にあるべきだが
      競馬は受容だね

  5. 困ったさん より:

    今日はgoogleが時刻表でした。
    エジプトの時の神様、トト神。
    緊迫した世界情勢。知ること知ることタイミングが
    よすぎて怖くて落ち着けません。
    松本零次先生、銀河鉄道999から1000年女王でしょうか。
    どうしたらもういいのか。

    • -自分- 涅槃 より:

      困ったさん

      >知ること知ることタイミングが
      >よすぎて怖くて落ち着けません。

      もちろんそうだ
      すべてあなたの思い描いたことだけが
      起こるようになっている

      だがタイミングは存在しない
      あなたが見たときにそれは見えているのだよ
      そしてそのとき
      あなたは「やはりそうだった」となる

      何かを見たくないのならば
      それをやめることだよ

      戦争はあなたの中で起こる

  6. 悠久 より:

    ポーカーをしているのですが、
    ここを読んでいたら
    ギャンブルの話があったので
    コメントしたくなりました。

    ビギナーズラックもありました。
    始めた初日、初回は
    稼ごう!と思って
    突っ込んでふっ飛んでしまいました(汗
    その直後に
    授業料だ!と思って
    全部使い切るつもりでいったところ
    何度も良い場面が来て
    うまく行き過ぎて何倍にもなりました。

    最近感じる不思議な感覚がありまして、
    普段だと頭の中でよく、こうだからこうしよう等
    会話が繰り広げられることが多いのですが、
    それが消えて
    “ゾーン”に入ったような感覚になることがあります。
    感情的な部分も消えて
    決断も自動的で身体が勝手に動くような状態です。
    ガンダムのようなロボットの中に入って
    寝ぼけながら(?)動きを見ているような。
    いつその状態になっているかわからなく、
    それに気づいた時には元に戻っています。
    その状態のときはいつも結果が良いので、
    それに気づいて興奮して、
    正気に戻ることが多いです。
    一喜一憂してて未熟な感じですね(笑

    ギャンブルとかスポーツ、ゲーム等で
    どうプレイするといいとか
    そんな話も聞きたいです。

    あと、言葉についてなども…
    本で載っていたことで、
    『強運、実力、洗練、余裕…』などと
    いま必要そうな言葉を自分に染み込ませる〜…
    みたいなことをやっていたので。
    どうなんだろう、と。

    ごめんなさい長くなってしまいました。
    ここで“ポーカー”を見つけてしまい、つい(汗
    いつもありがとうございます。

    • 愉快 より:

      悠久さん、横から失礼します

      >感情的な部分も消えて
      >決断も自動的で身体が勝手に動くような状態です。

      この感じ、わたしも不思議に思いながら体験していました。まさにロボットが自動的にやってくれていて主観的には寝ぼけているのにうまくいくのです。

      苦手で面倒なことをしているはずなのになぜか結果も良くて。気がついたら元に戻っているのも同じです。

      「ガンダム」に反応してついコメントしてしまいました。(笑)

      ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      悠久さん

      まずギャンブルは、やる前から
      「勝敗は決まっている」ということ
      そしてギャンブルが終わった後は
      「勝敗などはなかった」ということ
      この矛盾する2つを理解する必要がある

      自分を”一本の長いレール”だと思えばいい
      人生で起こる様々なドラマ、
      成功や失敗、獲得に喪失、
      色々と節目が起こるが
      それはレールを「ここからここ」と
      区切って捉えているだけに過ぎない

      つまりギャンブルという区間内で
      「損失」があったとしても
      それは損失でもなんでもなく
      “区間”が過ぎてしまえば
      その状態が基本状態となって
      あなたが新しく生まれてくるだけだ

      常に途中にいるのだよ
      だから「常にいま」なのだ

      これが勝敗などない、ということ

      そして「やる前から決まっている」というのは
      その動機に関係がある

      あなたがいまそこで
      その服を着て
      その体勢で
      その端末を操作して
      本書を見ている

      どのようなシーンであっても
      すべては因縁生起だ
      あらゆる要素が組み合わさった結果が
      そこに起きている

      逆に言えばひとつの大きな動きがあり
      その中で私たちは複数の要素を
      浮かべているだけに過ぎない
      それは思考も含まれる

      この流れに沿うことを
      無為自然という
      循環のことだ

      さて、本題にはいろう

      ギャンブルを制したいなら
      ギャンブルそのものになることだ

      ゼロサムゲームだから
      つまりあなたが1万ドル失っても
      場自体は不増不減、何も変わらない

      じゃあ何が変わるのかといえば
      あなたの精神状態(マインド)だけだ

      勝ち負けの世界を超越したときに
      あなたのいう「ゾーン」が起こる
      現代的なライフハックでいうところの
      フロー状態

      どちらもサマーディであり
      自我が消えているので
      区分する必要はない

      場を制するとき
      つまりフローであるとき
      あなた(エゴ)の都合は一切無視される

      あなたは場に溶け
      ゲームそのものとなる

      さて、

      よいかな?
      攻略もなにもないのだよ
      外側に答えはなく
      それは内側にある

      あなたがエゴを捨て続ける限り
      精神がやられないだけだよ
      自然の法にて循環に流れるだけ

      プロのギャンブラーは
      負けることを知っているからプロなのだ
      素人ほどギャンブルは勝つためにプレイする

      これは人生のあらゆるすべて、
      商売も恋愛もなにもかも同じ

      あらゆる分野において
      その概念上の勝敗は何の意味もないことを知るものだけが
      世界そのものとなる

      旦那が仕事もせず飲んだくれでも
      奥さん自身が幸せであるならば
      それが真なるWinnerだ

      つまりあなたが自我に囚われて精神崩壊しなければ
      いつだってゲームそのものを楽しめるだろう

      勝敗などないことを悟るからだよ

      不幸も苦悩も幻想であり
      ただ楽しめば良いのだ
      人生というギャンブルをね

      楽しむことだ

    • 悠久 より:

      愉快さん
      自分さん

      その“フロー状態”のときは
      “楽しさ”すらも消えてるんですよね。
      後に満足感のようなものを得られるんです。

      そして、“勝敗がないこと”
      これは僕もよく考えていました。
      循環の途中ってだけで、
      いつ勝敗が決まるんだろう、と。
      勝敗は“ない”ときっぱり言われて
      ハッとしました。
      僕はありもしない勝敗に
      一喜一憂してたようですね。
      また捉え方が変わりました。

      ありがとうございました。

      それと、“ガンダム”といえば、
      あまり詳しくはないのですが、
      シャアが『人は流れに乗れば良い』と
      言っていたみたいですね。
      自分さんの言ってることに
      通じるのではないでしょうか。

    • 愉快 より:

      こんばんは。

      自分さんの「やる前から決まっている」を、つい先日なにかのゲームをしている時に感じたばかりだったので今読んでみて驚きました。

      そして、悠久さんの

      >シャアが『人は流れに乗れば良い』と

      ここを読んでああッとなにかを思い出したような気がします。それがなんだかは言葉にできないのですが。

      シャアといえば、「当たらなければどうということもない」とも言っていましたね。

      わたしはきょう、歩きながら風と音と湿度などが全て自分を (自分という人間の形をしたなにかを) 抜けていくという感じがして、そのとき、当たらなければどうということもないというセリフが思い出されて本当だ!と思いました。

      音のプールに浸かっている、という言い回しがこのブログにありましたがまさにそんな感じで。

      出来事はただ起こっていて、音も周りの物体も気配も空気も、当たらなければどうということもない。そもそも当たるって何だ?と。

      わたしは居ないじゃないか。
      でも居る。

      耳で歩いていたらそうなって、なんだか面白かったです。

      悠久さんのコメントからは悠久さんを、他の方からのコメントはその方を感じます。なんと言っていいかわからないけど、みなさま、ありがとうございます。

    • 愉快 より:

      悠久さん、連投失礼します。

      >その“フロー状態”のときは
      >“楽しさ”すらも消えてるんですよね。

      ホントだ!
      と、記憶を振り返ってみてビックリしました。

      楽しく楽しいことをしていた覚えもない。
      でもあとから思い出せば楽しかった、となる。

      ふしぎ。そして面白い!

      ありがとうございます。コメントしてみて良かった。本当にありがとうございます。

  7. えくぼ より:

    「日本の弓術」のお話ですね。
    私は弓道をしているのでこの本も読みました。タイムリーなことに、昨日の夜も読み返していたところです。でも私はまだ「的を射ずして的を射る」意味も分からず…
    「自分が消え、行為そのものになる」とはつまり「目の前の事だけに集中して夢中になっている状態」を指すのですか?

    • -自分- 涅槃 より:

      えくぼさん

      そうか、弓道をやっているのだね
      私がこの話を書くことになったのは
      あなたが携わっていたからなのだろう
      省略するが、阿波師範の話を書くに至るまでに
      いろいろと展開があってね
      まあ、すべて繋がっているということだ

      さて、
      >「目の前の事だけに集中して夢中になっている状態」
      >を指すのですか?

      あなたがごく当たり前の行為をするとき、
      例えば、外を歩くとき
      歩くこと自体に意識は向けていないかもしれない
      歩きながら考え事をしたり
      何か見たり聞こえたりしたものに気が向いたりね

      だが宇宙という空間に浮かんでいる球体に
      あなたは真っ逆さまでそこを歩いているのだ

      的を狙うとき、それは
      「どうやって浮かんでる球体に貼りつこう?」と
      思案していることと同じなのだよ

      だがこの話は自己啓発の類いではなく
      阿波師範は、
      「的を狙うという弓道」も
      「宇宙に浮かぶ地球という星を歩くこと」も
      すべては己が思い込んでいる概念であることを
      悟っているのだ

      つまりあなたが「ごく自然にできること」
      そのようにあれば良いのだよ

      自転車に乗る前は
      必死に考えていたはずだ
      どうやってあの細いタイヤでバランスが取れるのかと
      そんな危なっかしいことやるなら
      歩いた方が早い、なんて
      マインドはお馴染みの都合を連発したりもした

      だがいまは当たり前に自転車に乗っている
      細いタイヤでバランスを取っているなんて
      考えもしない
      それが自然になっているのだよ

      海外では〜術というが
      日本では〜道という
      それはそれらの行為の中に禅があるからだ
      そこに向かうためのテクニックではなく
      それは確かにそこにあるはずなのに
      それを知る自己がないために
      その関係性だけが残る

      おい、と言われると
      はい、と答える

      それはいったいなんだ?
      どういうことだい?

      家族があなたを呼んだとき
      あなたは振り向く
      それはなんだろう?

      その背景にあるものに
      触れてみなさい

      これを掴んだら
      あなたは何もかもがわかる

      わざわざ遠回りの世界を
      私たちは見ているのだよ

  8. より:

    『日本の弓術』は願望実現の法則なども同じ原理が働いてそうですね。

    • より:

      目標を書き出してそれを毎日読み上げるのようなアメリカ型願望実現の法則は、言わば、的を出来るだけ意識して、それを射ようと言う西洋型弓術ですね。
      もっとも、その方法で、オリンピックで金メダルを取ったりしている人もいるようなので、効果がない訳ではないのでしょうが。自我を起こすタイプと受容タイプの違いなのでしょうね。

    • -自分- 涅槃 より:

      鯤さん

      自我ではなく主体に在るならば
      それはまたひとつの道なのだよ

      受容とは真逆のアプローチだが
      到達するところは同じ
      主体の道は遠回りするがね

  9. ONEPOINT より:

    このような手記を読むと以前は破戒僧のように
    ならなければいけないのかと思っていましたが
    それも個性の1つということですよね。

  10. としゆき より:

    はじめまして

    私は1年前に離婚して、今でもずっと前妻の事を愛しています
    復縁を目指し沢山の本やサイトの文を読み
    気持ちを何度か伝えたり、その後本気で諦めてみたり
    内側を明るくしてみたりと出来ることは何でもしてきました
    しかし復縁どころか全てが不幸と思える事が次々と起こってしまいます
    頭の中がゴチャゴチャしていてもうどうしたらいいのか分かりません
    私の願いはもう一度、嫁子供と一緒に暮らす事です
    どうかこんな状態の私にアドバイスを下さい
    よろしくお願いします。

    • 色即みっちゃん より:

      離婚経験者です。

      僕が離婚を経験しての観点を申し上げます。

      あくまでも僕の観点なので失礼がありましたら申し訳ありません

      …。

      まず…。貴方にとっての家族のかたちとは何でしょうか?

      一つ屋根の下で家族と一緒に暮らすことが貴方にとっての家族でのかたちしょうか?

      一つの屋根の下に一緒に暮らしていても、

      家族の心が一つでないならば、

      それは家族ではありません…。

      バラバラに暮らしていても家族の心が一つならば、それが家族のかたちなのだと存じ上げます…。

      (私の願いは、もう一度)それは自身の願望であり執着であると思います。

      自分の執着や願望だけで家族を求めてはなりません。

      家族のことを第一に考えることができるならば、

      自分一人の人生を生きるのも選択の一つだと思います。

      家族を思う…。

      覚悟です…。

      横槍ごめんなさい…。

      僕もかっては貴方と同じ気持ちだったんだよ…。

    • -自分- 涅槃 より:

      としゆきさん
      はじめまして

      >復縁を目指し沢山の本やサイトの文を読み〜
      >復縁どころか全てが不幸と思える事が
      >次々と起こってしまいます

      求めるものであってはならないよ
      そうである限り
      その真逆のものが起こるようになる

      走っているようなものだ
      あなたがどこかへ向かうほど
      すべては遠く後ろに去って行く

      あなたが見据えなければならないのは
      前の奥さんや取り巻いている状況ではない
      自分の心だ

      一日の中で可能な限り
      自分の中を見つめなさい

      思考や感情がどこからか起きては
      去って行く
      何かの思考がまた起こり
      そこから連想されたものに続いていく
      その始終を眺めていなさい

      最初は思考が自分が生み出したものと捉えるが
      眺めているうちに
      まったく自分の意図とは関係がなく発生していることが
      わかるようになる

      そのときあなたは「観ている者」の位置にいる
      その状態のまま、暮らしを送ってみると
      すべてが夢の中となる
      なぜならば、唯一目覚めているのが
      己となるからだよ

      それが本来あるべき状態なのだ
      苦悩も人生ドラマも
      ただ経験するものであり
      そこに巻き込まれるものではない

      そこに起きているすべては
      あなたの心が生み出したヴィジョンなのだよ

      あなたに弱さがあれば
      その弱さを感じさせる光景が起こる
      だから地に足を着けて常に存在していなさい
      それだけでいいのだよ

      あなたが揺るぎない存在性を備えるとき
      関わるすべては安定したものとなる

      まずあなたがそうなってから
      奥さんのことをもう一度
      思ってみなさい

  11. 困ったさん より:

    申しわけありません…。
    質問させてください。

    見なければ(他の事考えてる事や漫画読んでることも結構多いのですがフェイント的にニュースや
    たとえば時の神様ってトト神様で一番、うえの神様なんだなと太陽と月と竜だなと見てたらgoogleの表紙が時刻表で竜宮から月の都だったのですね。

    で疑問なんですが。もちろん私の世界限定で。

    気にしない気にしないでやっていったら今やってる戦争が消えるのか。

    それとも今までのように考えもしなかったのに事が起こったようにミサイルが落ちてくるとか。それなら単に気にしないだけとどう違うのだろうと。しぬときゃしぬさ、しゃ~ない。と別に変わらない気も…。

    それなら変にシンクロが起きないほうがこちらも何か止められるかもとか何かできるかもとか何か探求しないととか思わずにもすむと思うのです。

    実際に事象は変化してくれるのでしょうか。
    私が記憶喪失になれば戦争は起こらなくて、
    たまたまニュースを見てもホノボノ平和な国際情勢のニュースが流れるってことですか?

    • 爽やかハンサム より:

      困ったさんへ

      たぶん私も困ったさんと同じような所を見て来ましたので、何かのヒントになれればと思いました。

      私は10年、「この世界のシステム」の不具合を見て来ました。
      周りに気付いている知人は、一人もいませんでした。
      そして個人的に、今年の初めまでどん底でした。

      ――――――――

      空海は、まず「何かがおかしい」という所から悟りが始まると言いました。

      「何かがおかしい」と気付いた人は、「この世界のシステム」から何度も「出ている」と思います。
      出ていないと「おかしいシステム」は見れないからです。

      個人的に「私」は、2つの目覚めをするのだと思います。

      ● 1つ目は、「この世界がシステムで出来ている事」に気付く目覚めです。

      つまり、この世界は「ソフトの中」になっていて、そこにいる以上、それ以上の活躍は出来ないようになっているということです。
      “籠の中の鳥”です。
      「私達は、まだここにいるウエイトが大きいです」

      ● 2つ目は、その「ソフト」から出て「わたしの世界」に目覚めることです。
      「自分さんはここにいます」

      これに気付いた後は、1か2のどちらかを選ぶ「2択」になってくるのですが、
      私は出たり入ったりです。
      たぶん皆さんも知らず知らずのうちに出たり入ったりしていると思います。

      2つ目に行くためには、1つ目の目覚めをしないと行けないようになっていると思います。
      で、困ったさんはおかしさに気付いています。

      この前の私の「作文」の、

      「わたしだけの世界」というのが、2つ目の目覚めの事で、
      それは「ここにあるもの」だけの世界のことを言っています。

      1つ目の「誰かさんが作ったマトリックス」とは、「ここに無いものの世界」の事で、
      例えば「テレビ」は「ここにあるもの」ですが、「テレビの中の絵と音」によって「これは大変だ!」というのは思考であって、「ここにないもの」です。
      イスラエルの戦争はここにないものです。

      「ここにないもの」は思考であり、「ここにないもの」には一切「質量」を持たさないという事です。

      さらには、「わたしの世界=ここにあるもの」に入る事で、圧倒的にわたしに質量がきます。

      その時の「私」の表面には「それ」がいます。
      「それ」は、どこか頭の上にいるのではなく、「私」の表面に張り付いています。

      「それ」を意識する事で、「ここに留まる」し、それは所作に現れていると思います。
      たぶんイチローの所作がこれだと思います。

      偉そうなことばかり書いていますが、私もあまり変わり映えがありませんが、
      ただ、「わたしの世界」は、間違いなく「いつもの不安の世界」と違っていて、「活き活きとここ」にあります。

      わたしの場合は、意識的にやらならないと無理で、他者に話しかけられてしまったらすぐに「アウト」です。
      すぐこの世界に戻ってしまいます。

      “眠れる森の美男美女”
      「わたしの世界」からの「チュー」で目覚める。

  12. 困ったさん より:

    いや本当に私限定の話なのですが

    変えられなかったら終わるような話ですよね。
    これは。家族関係やお金関係は変えられなくても
    イライラしなくなったり気にならなくなったり、とりあえず衣食住さえ何とかなれば、それで満足できる時もあるだろうし眺められもするし、もちろんイライラしたとしてもまだ次、観照する機会もある。

    もし私の世界の世界情勢がかなりヤバい。
    イスラエルがやばいです…。状態の時、変えられるのは私の思考だけだとしたら、そういう情勢を受け入れて大したことないさ~と思えればいいということでしょう?

    けれどそれが大したことないと思えるレベルが深刻すぎるから。これを達観しろといわれても感性から恐怖心や慌てパニックが思考するより速く来るので、受け入れようとしても単なる痩せ我慢、苦行になります。

    恐怖はじっくり感じてみたけど、やはり一応、ふつうに日常生活は送ってそれに感謝はしてるけれど時折、ふと不安になる。

    そこまでは未熟なせいか達観できないし家族関係や恋愛関係ならともかく俯瞰のハードルが高すぎる。比べられるものではないのでしょうけれど…。

    私が神ではなく私の無意識が神で書いてる私はエゴだし。事象が変えられないのなら。。。。

    • -自分- 涅槃 より:

      困ったさん

      例えば新しい手記で
      すべての材料は大昔も今もここにあり
      それは概念ひとつで
      あらゆる形に「見える」と書いた

      人の数だけ世界がある
      それはすなわち、観念が皆違うからだ

      あなたの世界は
      誰が何と言おうとあなたの観ているものが100%だ
      朝テレビをつけると世界情勢が流れているが
      お隣では女子高生が
      彼氏にお弁当を作ってホワホワしている

      つまりテレビも弁当も
      国際危機も恋愛感情も
      すべて概念だ
      中身は同じものだよ

      この地球をどのように観ているかに過ぎない
      ゆえにあなたの世界はパーフェクトだ
      それを愛するのか
      それともやめるのか

      マインドとしての拒絶感はあるだろうが
      あなたがそれを観ている以上
      それは真の意味での愛なのだよ

      見方を変えるかどうするかは
      あなたの自由だよ

  13. 行ったり来たり より:

    はじめまして。
    半年ほど前にこの涅槃の書に出会い、いろいろな気づきを得させていただいています。

    〉「おい」と言われて「はい」と言うその間にあるもの、言葉を超えた背景にある”無”を捉えることだ。
    〉すべては自分がそのように見ていただけだったのだと気が付くのだよ。

    昨日、この部分を読んだ時は、府に落ちていて「なんて当たり前のことを言ってるんだろう」と感じていました。
    気づいてました。背景にある無を捉えていた気がします。
    でも、今日読むと昨日のその感覚がなくて、その当たり前さがわからなくなってます。
    他の記事でもこのようなことがあるのですが、そんな自分に何かアドバイスいただけないでしょうか。
    と言いつつも、また読み返した時にはこんな質問してることに違和感を感じてる気もしますが…

    • -自分- 涅槃 より:

      行ったり来たりさん

      はじめまして
      >今日読むと昨日のその感覚がなくて、
      >その当たり前さがわからなくなってます。

      「翌日の言葉」はあなたのものだからだよ

      目の前にティッシュペーパーやボールペンがある
      それらは「そういうもの」だという観念で
      あなたがそう見ているに過ぎない

      言葉もそう
      般若心経と官能小説の違いはない
      読み手がどう捉えているかだけで
      それが経典や娯楽としてヴィジョンされる

      だが最初に触れたとき
      あなたは言葉を超えた部分を感じていた

      何でもそうだが
      新しい出会い
      新しい出来事
      新しい言葉

      なぜ「新しい」かといえば
      あなたの世界にまだなかったものだからだ
      だから観念のしようがなかった

      だが次に見たときは
      すでにあなたのものとなっている
      電子レンジもそれが何かわからなければ
      ただの金属の塊だっただろう

      ゆえに未知ほど人はワクワクするし
      最新情報に目を奪われるが
      次々と「新しさ」を求めるのは
      いずれ限界がくる

      そうではなく
      「見ているものは実在しない」と
      喝破することだ

      あなたは「有り難い言葉」を残そうとする
      それがいけない
      常に捨て去りなさい

      触れたら
      すぐに捨てる

      無論意識の中でね

      有り難く後生大事にしまっておくなんてことは
      やっちゃだめだよ

      人生のどんなことも
      持ち運ばないようにすることだ

      囚われることで
      あなたの世界の壁はどんどん高くなる

  14. あああ より:

    私は自分が認識や因果関係の世界にいただけで本当は何もしらない、見ることが叶わないことに気づき、恐怖を感じたのですが、この恐怖が何に由来するものかわかりますか?

    • -自分- 涅槃 より:

      あああさん

      それはマインドの存在意義が
      脅かされたことによるものだ

      つまり思考やエゴといった
      日頃の「あなた」とは実在しないということ、
      それを感じてしまったのだよ

      思考は思考することがその存在ゆえに
      思考を続ける限り
      それはそこに実在すると認識する

      だが思考が起こるその空間は
      思考はただテーブルに置かれた物体に過ぎない

      思考が空間を知るとき
      己の絶対性、自己性が揺るがされてしまうのだよ

      いいかい
      それは最初は恐怖として映る

      だが超えなさい
      それを超えるとき
      あなたはあらゆるものから解放されるだろう

    • あああ より:

      めちゃめちゃわかりやすい説明ありがとうございます!!
      こないだ恐怖してる自分の思考、を「認知するもの」を理解したので、
      もう悩みが消えましたし、世界が無と同時に全て自分であることの意味も十全に
      理解しました。今は思考と感情すらも認知の一部として愛しています。
      ところでこれは晩年のウィトゲンシュタインの考えと同じだと思うのですが、
      どうお考えでしょうか?http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/75.html

    • -自分- 涅槃 より:

      あああさん

      ヴィトゲンシュタインに言及することはない
      大事なことは
      すべて「あなたが見ている世界」だということだ

      どのような哲学も宗教も科学も
      あなたの手のひらの中なのだよ

      いま興味がないことがあるなら
      それは存在すらしない
      あなたが意識を向けているものだけが
      その宇宙に顕現している

      その仕組みをうまく使いなさい
      この世とはとてもシンプルなのだよ

      そこに恐れを持たなければ
      恐れは存在しないし
      恐れればそれはあなたを食い尽くす

      すべてあなたがどう見ているか
      ただそれだけなのだ

コメント・質疑応答

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