努力せずに生きる

無努力の努力
禅の話だ

これは”努力してはならない”とは違う
してはならない〜 その時点でそれをしている

では無努力とは何か

例えばあなたは毎日クタクタに疲れている
その苦痛、苦悩、ネガティブ
何が疲れているのかといえば
実は肉体ではなくその思考である

肉体自体は常に至福にある
エネルギーを放出し
休養することでまた漲っていく
つまり肉体は疲労することなく
ただ循環作用に流れていくだけ
そこに疲労という概念はない
植物が自然界に沿って生きているように
あなたの肉体も流れのままに存在している

だが思考は違う
過去や未来
そこにないものを持ち込むからだ

たったいまパスタをフォークに絡め
口へ運んで食べているときでさえ
思考はまったく関係のない情景を作り出す
せっせと作り出していく

そこにあるのはフォークの重さ冷たさ
周囲の雑音、パスタの香りと味、
そして食べているという様子だけなのに
頭の中ではいつも問題事でいっぱいだ

あなたが大変に苦しい日々を送るのは
思考がオーバーロードしているに
他ならない

もしあなたが「そこにあるもの」
だけを相手にして
つまり目の前の物事だけに
順応して生きていくとき
一切の疲労が消える
肉体の循環が常に心地良く
まさに世界と肉体が
ひとつであることを悟るだろう

そして「自分は何もしていない」ということ
無努力という境地がわかるようになる

 

いかに何もしないか

物事をうまく流していくには
いかに何もしないか、である

「うまく」とはあなたが
ストレスフリーであるということだ
あなたが会社や店を経営しているならば
どれだけそこに精神を費やさないか
で決まる

世界はただ流れるがままにあり
その肉体も流れるがままにあり
行為と対象を眺めている場所にいる
そうして行為者と対象は姿を消し
その「間柄」だけが残る

金属の棒を手に取るとき
あなたは「自分の手が金属の棒を持った」とする
だが実際に起こっているのはその感触だけだ
手も棒も便宜的に生み出された幻であること
それを見破れるようになる

それが観照といわれる「様子」のこと
観照はあなたが”なる”ものではない
そこに起こっている単なる様子
手も棒もなく
ヒンヤリとしてズッシリとした感触、
ヒンヤリもズッシリという言葉も超えて
最後にそこに残るもの
それが観照だよ

 

コツを掴むこと

子どもの頃プールに放り込まれた経験はあるかね
最初は無我夢中で手足をばたつかせる
溺れそうになって
必死に藻掻き出す

水上に引き上げられまた突き落とされる
あなたはまた必死で藻掻く
できるだけのことを全力ですべてやる
やめてしまえば溺れ死んでしまうからだ
だけども藻掻くほど、身体は沈んでいく

また引き上げられ、そして突き落とされる
同じように全力で藻掻いているが
ほんの刹那、あなたは妙なことに気が付く

力が抜けたとき
沈まない

だが身体が硬直していてはダメだ
そのコツがある
そのタイミングがある
あなたの身体は知っている
知らなかったのは「あなた」だけだった
だからあなたはそのコツを見出していく

そして最小限の力で最大の成果が起こる

その時点で、あなたはほぼ何もしていないが
まだ少し水中と身体の関係を気にしている
それすらも捨て去ったとき
もはや水中であることを忘れる
つまり水中も肉体も消失し
ただ自然の循環に委ねている様子となる

大切なのはやれることを全力ですべてやることだ
そうしなければコツは掴めない
どうやっても不可能、理不尽、無力
それでもどんどん手を打っていきなさい
努力に努力を重ねなさい
そうしてあなたは「無努力」に入ることができる
その世界そのものとなる
あなたは何もしちゃいない
世界がただあるがままに流れていく
風林火山の如くね

 

自然と向き合うメソッド

冬場ならばスキーやスノーボードなど
夏ならばサーフィンでもいい
機会があればトライしてみなさい

この手のスポーツは大自然との対峙が前提にある
初級者の頃は誰もが自分の無力さに絶望する
雪の斜面、海上の波
それらがどれほど絶対的なものであるかを
思い知ることとなる

最初はすべてに抵抗をするだろう
雪の斜面を滑り落ちるとき
あなたは一枚の板の上で必死に身構える
恐怖で重心が後ろに下がれば豪快にクラッシュだ
雪上ではスピードそのものにならなければ
コントロールを手にすることはできない
マインドはいつも怯えている
肉体にすべてを委ねるなんて
正気の沙汰じゃない
そう思い続けている

10メートルほど先に
さらに急な斜面が見えてくる
突っ込めば下手したら死ぬかもしれない
自然に委ねて順調に滑走してきたのに
あなたがマインドに意識を移した途端、
足が震え出す
硬直する
重心が後ろになる
安全策を講じているつもりが
ますます危険な状態になる
そしてアウトオブコントロール
制御不能

あなたの毎日と同じだよ

 

動物たちの世界

マインドを捨て去らなければ
どうにもならないこれらのスポーツ
特にプロと呼ばれるプレイヤー達は
社会的なあなたから見れば
どこか不真面目で頭が悪そうで
マナーもエチケットの欠片も感じさせない
ただの異常者に見えるかもしれない

そりゃそうだ
彼らはマインドを超越している
いわば動物の視点を持ち運んでいる

自然に身を任せ
肉体を許し
世界を解放している

宇宙の原理からいえば
そこにないものに囚われている
あなたの方が異常なのだ

戦地へ派遣される兵隊や
抗争の激しかった時代のマフィア
彼らも同様に「いまこの瞬間」にいた

悟りとは解釈的に言えば
意識の置き方のこととなる
これは現代仏教でよく使われるものだが
わかりやすい表現なので使わせてもらおう

天上界
人間界
動物界

それらはそういった場所があるのではなく
あなたの意識がどこに置かれているか
それだけのことだ

日常生活でマインドに振り回され
何もかもが不幸に感じているとき
人はそのエゴを捨てる方向に向かう
よくあるスピリチュアルの手引きだね

何かといえば
動物界に意識を向けられよ、ということ
動物たちはあるがままに、
いまこの瞬間に存在している
心配性や鬱病の動物などいない
「このままいくと来月の食料がやばい」
そんなことを考えるのは人間だけだ

ただ単純に雨風をしのぐ寝床を探し
ただ単純にいま食べるものを探し
ただ単純に生きている
まさにシンプル

さらにいえば
自分が虎や牛だという自覚もない
そこに広がる世界を受け入れ
ただ眺めているのだ
起こるがままに任せている
そこにあるのは具体的な体感
肉を食いちぎる感覚
大きな獣に狙われる感覚
太陽や雨水の感覚
そうした肉体的な察知の世界だ
肉体から滲み出る生気
鮮烈なエナジー
自分の足で地面に立ち
自分の目ですべてを見渡し
肉を食らい水を飲み干し
殴って奪って与えて育てて
「俺は生きているぜ!」という世界

未来や過去をマインドで判断しないということは
猫だから猫らしい行動をしようなんて
猫は考えていない、ということだ
彼の空間には
ただ「猫という行動」が起こっているのだ
その内奥で世界を眺めているものがあり
表面上は犬や猫であっても
中身は全部同じものとなる

 

神の世界

そして天上界
いわゆる神やら天使やら
無償の愛やら
そういう抽象性の世界
つまりハートの世界だ

あなたが街を歩いていてすれ違う人々
目に入った建物、物など
すべてに己の息吹を感じるのであれば
それがワンネスの扉となる
どこにも「他人」などいないし
全部が全部繋がっており
つまり「ひとつのもの」だ
生死もなく時間の概念もない
ドン、とそこに広がっているだけの「何か」だ
動物たちに起きている観照の置き場がこことなる
物的ななにかではなく
エッセンスのようなもの

以前にも書いたことがあるが
瞑想には2つの道がある
ひとつは世界は自分しかいないという自由性のもの
喉が渇けば水を探せばいい
水はちゃんと存在している
あなただけのために
すべては用意されている
世界はあなたをサポートするためだけにある、
そういう次元
様子でいえば地球上で人類が崩壊した後、
あなただけが生き残ったようなもの

他者ですらあなたのためだけに存在している
だから「他者」ではない
比較する相手がいないから
不幸も理不尽もなく
押し迫る期限などもなく
ただ瞬間ごとに強烈に生きている状態

もうひとつは己が世界だったという一元性のもの
自他がないから全部が己の体内となる
善も悪もなく
自他分離の苦もない
あるのは永遠なる喜びという無限の世界
始まりも終わりもない
すべてが”己である”という様子
生きている以上、マインドは活動するから
己という自覚は残る
振り子がマインド側に揺れたときに
「そうではない側」に気付いている

前者が動物界で後者が天上界としておこう

先述したように
動物たちはいまを生きている
だからアイデンティティがない
エゴイスティックでもない
ただ、猫は猫で鳥は鳥
だからその内奥にある「観照」が
いつも目を覚ましている
つまり動物界も天上界も
同じであるということだ

 

人間の世界

中途半端なのが
あなたのいる人間界だ

人間はそこにないものを主体とする
メリットは創造性となるが
デメリットは妄想性である

言葉が生まれ
文字が開発され
こうして人から人へ伝わっていく

この時点で自他分離なのだ
「伝えること」に比重を置くほど
ジレンマが起こる
マインドのパラドックスの行き先はいつも同じ
「一体私は何をやっているのだろう」
という虚しさだ

金儲けも恋愛も夢や目標も
モチベーションという
エネルギーを生み出すのは良いが
その対象だけに囚われるとき
あなたは途方と絶望に暮れる

人間はいつもバランスがある
表の部分と裏の部分

この二元対立が
人間界の掟のようなものだ

植物はあるがままに存在する
そこにいながら
起こるすべてを体験する

さらに動物は行動力を得た
あちこちを歩き獲物を手に入れる
そして手に入れられないことも経験する
だから植物よりも多くを経験できる

そして人間は想像力を得た
物的ないまここだけではなく
様々な計画を練ることができ
冴えた想像力で新しいものを
生み出してきた
だがその反面
想像力はネガティブにも作用する
そうして「ありもしない」はずの病気にかかる
ガンや精神病、人間関係、破綻、

つまり動物よりも
多くを経験できるということだ

このように書けば人間の”認識上”では
人間が最上位であるように感じられる
人間以上の存在は人間は認識できないのだ
動物は人間も自分たちと
同じと思っているのだから

だが人間界に君臨する王様は
常に恐れている
失うものがそれだけ多いからだ

愛する妻や子
豊かな食べ物
順風満帆な暮らし

あなたがそれを守るほどに
すべてが敵に見えてくる
実際、何もかもが
あなたに襲い掛かってくる

得た喜びと
失う悲しみ

どちらも至福のものだ
だけどもマインドに染まる以上
いつも逃げ回るだけの人生となる

 

無努力であるために

二元という振り子を超越するには
振り子そのものになることだ

それにはまずあなたが
ホットなアニマルになる必要がある
それには努力が必要である
現実に対して藻掻きなさい
徹底的に立ち向かいなさい
全力でやれることをすべてやるのだ
そうして「循環」を悟るようになる
頭で気付くものじゃない
あるタイミングで「ん?」と
感じるときがある
それは理屈で解明したところで
アテにならない
その理屈を追求しだすからだ

そうじゃなく
水を指でつまんで運ぶには
夏場に豪快に扇ぐ必要などなく
寒くなれば勝手に凍るということ

だがあなたは必死で扇ぎ続けてきた
それは徒労ではなかった
なぜなら、扇ぎ続けていたおかげで
冬が来たからだ

そこから宇宙そのものになればいい
これも飛躍の必要はなく
宇宙は英語でスペースという通り
その世界が起こる「空間だったこと」が
勝手に起こり出すだろう

あなたの中で夏や冬が起こる
水は凍り、そしてまた液体になる
その事実を悟るまで
最大の努力をしなさい

何事も最大の努力で挑みなさい
雪上の斜面で最高に怖がりなさい
豪快に転がってケガをしなさい
痛みを繰り返すうちに
こけ方もうまくなる
自然はこういうものだと
受け入れなさい
そしてマインドの鎖が緩んだとき
スピードとひとつになる瞬間が見える

そこだ

いいかい、これは人間関係でも同じ
多くの人に揉まれなさい
辛い思いをしなさい
嫌な気持ちになりなさい
悲しんで、怒って、笑って、
たくさんの思いを経験しなさい

人はそういうものだと
受け入れなさい
ごくあるがままに
その通りに、そこにいる、
それが人だということを知りなさい

あなたの中の何が
「人はこうでないといけない」と
していたのだろう?

そしてマインドの鎖が緩むとき
どんなクソ野郎も
あなたのためにいたのだとわかるときがくる
頭脳で理解するものじゃなく
身体は最初から知っていた、ということ
それをあなたが受け入れるときがくる

 

最後に

人生を円滑にしたいならば
いかに何もしないか、ということだ

これは冒頭に書いたとおり
あなたがスムーズに物事を
こなしているとき
精神に負荷がかかっていない

それが「何もしていない」だ
あなたが何もしないとき
物事は本来の在るべき方向に
流れるようになる

お金であれば水源に循環していく
人間関係であれば
あるべき関係に配置されていく

肉体は動こうが休息しようが
どちらも最高に喜んでいるのだから
任せておきなさい

あなたがひとり、
苦しんでいるだけなのだよ

 


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  1. ONEPOINT より:

    相変わらず探求の日々ですが、最近はこの記事のように
    もうお手上げだ、というところまでトコトンやるしかないのかなと思っています。

    人に揉まれるというのは私にとって最も足りないものです。
    正直言ってもう少し静かに自己探求を続けたいのですが状況が許さなくなってきました。
    いい加減に人と交わりなさいと言うことなのでしょう。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>ONEPOINTさん

      例えば他者
      あなたにとって、それは何かね?

      それぞれの個性ではなく
      あくまで「他者」とは
      あなたにとってなんなのか

      それを探求してみなさい

      なんのために
      「それ」があるのか

      あなたに関わり続けるそれらは
      一体なんなのか

      そこを探求しなさい

      あなたにとって苦手だと思うものほど
      マインドの対極にあるものだ
      それがそのままストレートな答えとはならない
      それはマインドを介してしまうからね

      そうではなく
      全体としてすべてを眺めてみることだ

      あなたはおらず
      ただ地球という生命体がある
      そうして俯瞰したときに
      流れが見えてくる

      あなたが個人的に抱えている好き嫌いや
      判断、執着、
      そんなものは宇宙の藻屑となっていく

  2. より:

    こんにちは。

    今日の記事を読んで…えーまた努力なの!?と思ってしまいました。

    無努力であるために全力を尽くして、もがき苦しむなんて、むちゃくちゃ遠回りというか、
    そんな徒労みたいなことをしないと自分はあるがままを悟れないのでしょうか。

    ライフハックみたいにマインドの負担を軽くするメソッドは楽しいし実践しがいもありますが、こういう努力とか苦しみとかは、それに愛想がつきたからスピリチュアルに惹かれたので、すごく抵抗を感じます。
    涅槃の書に書いてあったから嫌なことも避けずに立ち向かうぞ!と変に力んでしまいそうです。

    やっぱりスピリチュアルに頼って努力を避けてるんだ、という後ろめたい思いが自分のどこかにあるんですね。
    時々こういう思いに捕らわれて苦しくなることがあります。
    現実とスピリチュアルのバランスが取れず立ちくらみする感じです。
    乱文乱筆失礼しました。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>虎さん
      自転車のようなものだよ
      最初は転ぶ
      最初はよろめく

      なんで細いタイヤの上でバランスを取らなければならないのか
      歩いた方が早い
      そう思っているのが多勢だ

      だが自転車に乗っているいま
      自転車を意識しない

      意識を向けている間は過酷な試練だった
      だがやってることは同じでも
      いまは違う

      それが「コツ」であり
      タオなのだよ

  3. より:

    ありがとうございます。

    自転車のたとえ、いつかの中観の記事を思い出します。

    スピリチュアルとは夢のようで、そんなものは実在しないと感じることもあるし、
    逆に現実世界であくせくすることのほうが儚い幻のように感じる時もあります。
    何をしても、何を積み重ねても残らない、結局は振り出しに戻る、と思うと
    恐怖というか焦りでウワーと叫びたくなる瞬間があるのですが、その瞬間すら
    過ぎ去ってみれば何でもない。
    結局、自分って人生って何なの?と思春期みたいに自問してしまいました。

    回答頂いて、すぐには腑に落ちてないですが、折々思い出してゆっくり消化したい思います。
    他の方とのコメントのやりとりも参考になりました。
    ありがとうございました。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>虎さん
      循環という言葉をよく使うが
      正しくは円環なのだ

      始まりも終わりもなく
      何かが何かになるわけでもない
      そして、グルグルと回っているのでもない

      ただ円環が何の動きもなく
      そこに在るのだ

      動きがあるように見えるのは
      見ている角度が違うだけのことであり
      実際は何も進行していない

      シンクロニシティも時間の経過を意識するから
      不思議ごとに思えるだけであり
      そのテーブルの上に、パンとジャムが置いてある
      ただそれだけのことなのだよ

      人はパンだけを見て
      そしてジャムだけを見る

      まさか同じ場所に置いてあったなど
      考えもしないのだよ

  4. maychan より:

    35年前、ある試験に合格するため4年間頑張って勉強したけどうまくいかず。不合格通知をもらったその時、「えぇーい、人生はなるようになれ!やわ!」と思ったら、心がすぅーっと軽くなったのを覚えています。
    その後は、結婚して同居して「頑張ってうまくやらなくちゃ」と思うまでは、とても楽しく生きていられました。
    頑張らなくちゃと思うとしんどいことばかりでした。

    あの時のあの感覚になれたら、人生はうまく回るはずだと思いながら35年経ってしまいました。
    あの感覚「えぇーい、人生はなるようになるわ!」が努力せずに生きることですよね。
    守るものが多くなって、20代のころのように簡単にはいかなくてもがいています。
    毎日、深呼吸をして「人生はなるようになる。なるようになる。」と唱えています。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>maychanさん

      あなたが35年前に感じた解放と
      いまこれからやろうとする

      >「えぇーい、人生はなるようになるわ!」が努力せずに生きることですよね。

      それは違うものだ
      無努力を”行おう”としている

      だからそうではなく
      完全に諦めなさい
      何もする必要もなく
      世界という海に漂う死体のようになりなさい

      いいかい

      ・自分は完全に失敗しているということ
      ・自分は不幸の奈落の底にいるということ

      それを認めないから
      不安になり、そして幸福を求めようとする
      そうじゃない
      最初からゲームオーバーだ
      誰もそこに気が付いていない

      あなたが「自分はすでに終わっていたのだ」と悟るとき
      35年前の境地に立つだろう

    • maychan より:

      自分さん、ありがとうございます。

      私は完璧でありたかったんです。
      心の隅では「そんなこと無理、何をもって完璧とするん?」
      と自分に問いかけながらも、やっぱり完璧でなければいけないと思ってきました。
      35年前のあの境地に立てたら完璧になれる気がしました。

      完璧は諦めます。大海の波間に漂う波なのに、隣の波のような形にならなくちゃなんて、ばかみたいですね。まさに海中のバケツの水ですね。

      「自分はすでに終わっていた」この言葉はとても心地いいです。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>maychanさん

      「完璧」とは他者や社会の目線での「あなた」のことだ
      あなたが「自分はすでに終わっていた」と悟るとき
      それは他者目線の己を捨てるということ
      つまり不幸も地獄も消える
      それらは他者があるゆえに起こる幻想だからね

      あなたが「すでに終わっていた」と知ること
      それは「自分だけの世界」が現れることを意味する

      好きなように生きなさい
      すべてはあなたの中にある

  5. あの時の覚醒者 より:

    なんか此所も凄い賑わってきましたね
    いつかオフ会とかできたら楽しそうだなー

    お久しぶりです自分さん、とりあえず僕は主に恋愛について思うまま生きてます
    インスピレーションが来たらそのままに動き、己の中にタブーや制限を感じたら無視してまた行動します

    うーん言葉にするのが難しいですね、こういうのって(笑)

    要はマインドに囚われていた時ならハイリスク過ぎると躊躇してたような行動を割と気軽にとれるようになりました
    たまに不安も感じますが変な確信と安心感を感じてます
    そのせいか、常識を超えた素晴らしい時間が増えた気がします
    とにかく心の新陳代謝が早いです
    状況の新陳代謝も早いです

    僕は今までなんてのろまな人生を歩んでいたのだろうとマインドに囚われてしまいそうにもなりますが、今が楽しいのでまあ良いです(笑)

    ずっと生きながら神になろうと頑張ってきたけど動物も悪くないなと感じてます

    これもマインドかもしれませんが、この先の人生に何が起きるか、僕に最適なあるがままの配置を楽しみにしてます

    と、書いてる今状況の変化があり心に小雨が降りましたが、所詮風景なのでこのまま寝たいと思います

    いつも素晴らしい記事ありがとうございます!

    あ、そう言えば最近怒ったり悲しんだりする自分が嫌じゃなくなってきました
    自分さんにもこういう変化はありましたか?

    • 自分 -涅槃- より:

      >>あの時の覚醒者さん
      あなたが「ハイ」ならば良いことだ
      だが二元性は忘れてはいけないよ

      人々はドラマの中にいる
      それはテレビのドラマを見ているのと全く同じものだ
      あなたはテレビを見ている
      そのドラマのシナリオと役者の台詞を聴いている
      その縛られた世界
      あなたもそこに入り込んでいる

      いつか視聴者の座にくるときが訪れるから
      その時は大いに笑いなさい
      何もかもただのお遊びなのだよ

      あなたの愛する人
      それは「あなたの愛する人」だ
      この言葉の意味がわかるときがくるだろう

      私も怒り、泣き、笑う
      それを楽しんでいるよ

  6. ただの思考 より:

    >いかに何もしないか
    →(”マインドが”)いかに何もしないかということですかね。
    マインドに仕事をさせないとも言えるでしょうか。
    意識的に何もしない、本当はしたいが無理やり何もしないということではない。

    今直接感じている感覚に注意を向ける。
    最近では足の指先から頭のてっぺんまで意識を向けるのが気持よく感じます。

    • -自分- 涅槃 より:

      ただの思考さん

      マインドに仕事をさせない
      確かに理屈ではそうだが

      実際にノーマインドになるとき
      「ノーマインドをやっている」という
      感覚すら、当然消える
      だから「行為だけが残る」のだよ

      雲の去った夜空のように
      ただ月が輝いている

      あらゆるものはそれと同じく
      輝き出す

      つまり行為が行為として
      そこに在るようになる

  7. yuka より:

    一昨日登録させて頂きました。
    暇さえあれば読みあさっています。
    読む度に癒され、自分がいかに自分の小さな信念と条件づけの中で、生きていたかを思い知らされています。それが嬉してたまりません。こんな場所に出会えた事が感謝です。ありがとうございます。

    偶然は無いと思っていますので、この出逢いも完璧な流れなんですよね。

    動物界と天上界は自他がないという意味で同じだと思っていました。
    世界はわたし、全ては私が居なければ消えてしまう。ということは万象万物は私の心の中の現れ、ということは、そして私も幻で、その幻を見ている私がいる。
    結局、私の世界だから、努力など必要なく、何かのために何かをする、という、かつては打算の塊だったわたし、外側に幸せを探し求めていましたが、全てを委ねて、ただ、今ここ、目の前を生きていくことで良かたったんだと、思っています。
    願望を持った瞬間それは叶えられた、だから、その願望さえない、、
    乱文で申し訳ありません。
    ご指摘がありましたら宜しくお願いします。とにかく、永遠の安心した世界に居たことがわかり、今の状況がどうであろうが、安心して生きたらいいのだ、と
    これもエゴでしょうが、
    そんな気持ちです。

    • 涅槃の書-自分 より:

      yukaさん

      はじめまして。こちらこそありがとう。

      >自分がいかに自分の小さな信念と条件づけの中で、生きていたかを思い知らされています。

      大事なのは、確かに信念のなかに私たちは生きているけども「信念の外に出ることはできない」ということにある。つまり新しい信念に飛び移っていくしかないということだ。なぜなら私たちとは実在のものではなく、信念そのものであるからなのだよ。

      >偶然は無いと思っていますので、この出逢いも完璧な流れなんですよね。

      そう、すべて形を超えた「流れ」だけがある。それは必然的なものだ。だがそれは自由がないとか運命が定められているということではない。この視座にあるとき、つまり必然が「前提にある」とき、それは必然という概念を超えているからだ。

      その流れをどのように信念に当てはめるかだけであり、たとえ信念上に現れた世界が不条理であるとしても、なんの問題もないということである。

      しかしもしあなたが望みの世界を生きたいならば、当然信念を更新していく努力は必要となる。先も行ったように、信念とは己の存在そのものであり、つまり己自身を古い価値観で縛ることなく、随時アップデートしていかなければならない。

      だからその努力とは、いまある信念世界のなかでの努力(既存のルール上での勝敗にこだわることや、規定された問題解決の手段を望むこと)に力を注ぐことではなく、その野球の死闘が繰り広げられている球場の上空から、新しい関連性を創り出していくことにある。つまりパラダイムシフトすることにある。

      たとえば野球をしているグラウンド上では、幸福や不幸はゲームの勝敗という狭い領域にしかない。だがヘリで球場を囲む都市全体を眺めるとき、野球を様々なことに関連させていくことができる。

      それはデートスポットであり、友人たちと盛り上がる場であり、たとえひとりで観戦しにいっても、ひとつの洒落たライフスタイルを演出してくれるものでもある。

      概念的な拡大はいくらでもできる。つまり野球そのものの勝敗だけが問題ではなくなるということ=野球という小さな世界での勝敗を超越することができるということだ。

      このように現実を捉えてみれば、どうして自分が不幸であるのかがみえてくる。その不幸を解決しようとしてもだめなのだよ。まったく別の捉えかたをすることによって真の扉が開くのである。

      スピリチュアルに興味のなかったあなたが、いまこうしてこの文章を読んでいるようにね。だからそのように捉えてみればスピリチュアルにしても何にしても、すべては己の創造物であることがみえてくるはずだ。それが信念というものである。あなた自身の存在やあなたのみている現実世界の正体である。

  8. ushi より:

    かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は牛飼いであった。
    誰の心も閉ざし、人という人はことごとく退けた生活であった。
    ある夜、俺は生を膝の上に座らせた。
    苦々しい奴だと思った、俺は思いっきり毒づいてやった。
    俺は死にたくなった。
    牛を縛る縄で首を吊ってやろうかと思った。

    牛に子どもが生まれた、かわいい奴だ。
    俺は子牛に近づいた。
    ──俺まだ知らなかった、母牛の兇暴さを。
    すると、母牛は突進してきた。
    俺は…
    逃げた。
    ──死にたいのに
    俺は逃げた。
    何故に、俺は逃げたのか。
    糞尿の上に寝そべり、絶え入ることができたはずなのにだ。

    “お前もやっぱり牛なのさ”
    などと、いかにも可憐な鼻輪で俺を飾ってくれた牛が言う。

    ああ、俺は生きている。

    過ぎ去った事だ。今、俺は生を前にしてお辞儀の仕方を心得ている。

    • shiy より:

      触りたいけど触れない

      そんな感じがリピートする
      切ないな

      正直意味は分からんけど

      ushiさんの表現好きやんね♪

    • ushi より:

      shiyさん

      どうもありがとう。
      ほとんど、ランボーの著書『地獄の季節』
      からの引用です。
      自分さんが読んでるのを知って
      去年、本を購入したんです。
      何回も読んでいるのですが
      僕にも正直意味分からんことだらけです。
      でもこの本は、
      分からないことがクセになるんです。
      理解できなさが僕は好きです。

    • 涅槃の書-自分 より:

      ushiさん
      shiyさん

      >僕にも正直意味分からんことだらけです。でもこの本は、分からないことがクセになるんです。

      それでいいんだ、ランボーが伝えていることを”十分に気づけて”いる。

      あなたの持っているのがどの訳者のものかはわからないが(「地獄の季節」と書いているから小林秀雄かな?)、「H」というタイトルの詩があるはずだ。

      イリュミナシオン(小林秀雄の訳書なら、地獄の季節の次の「飾画」という詩集)のなかにある、たった数行の「H」に彼の言わんとしていることが凝縮されている。

      だから「H」を解読してから地獄の季節を読み直すとよりよく理解できるかもしれない。

      さて「H」だが、あまりに抽象的な詩ゆえに、訳者によってニュアンスが異なったり意訳が過ぎていたりするので、複数の訳者を並行して読むか、原書を直接訳するといい。またそれだけ「H」を解読する無数の説があるが、それはまさに「H」で語られるオルタンスの手の内で転がっているにすぎない。

      Hとはオルタンスの頭文字であるけどもランボーの母語であるフランス語ではH(アッシュ)は発音されない。つまり「そこにあるのに直接捉えることができない何か」を象徴しており、それは必ず別の仮面をつけて私たちの前に現れる。

      ヒントだけ書いておけば、オルタンスとは「大いなる流れ」のことだ。

    • ushi より:

      小林秀雄訳の本を持ってます。
      原書も持っているので直接訳してみます。
      ありがとうございます。

      “trouvez Hortense”

    • 涅槃の書-自分 より:

      ushiさん

      19世紀から20世紀初頭もそれまでの人類史に漏れず、大きな社会変動があったのだけども、だがその時期の「激動」は、私たちの時代に近いゆえ、当時の人々の感性を受け取りやすいといえる。

      だからランボーに限らず、その時代の他の詩人や作家、哲学者、科学者たちの文献も片っ端から読み漁ってみるといい。どれを読んでも「オルタンス」が背後にあることがわかる。

      それを掴めたなら、彼らがルーツとしていた書物を辿っていこう。ルネサンスから近代、そして遠く遡ってヘレニズムあたりの古典古代、それらの時代に残された書物はいまも”私たち人類の宝庫”となっている。この意味はあなた自身で解明しなければならない。

      もちろん忘れてはならないのは、知識を積み上げることではなく、オルタンスを捜し続けることだ。誰もがそれを伝えているのだからね。

      やがて書物だけでなく、日頃の他者との関わりのなかで、また何気なく過ごしていた日常のなかで、あなたはそれを見出しているだろう。

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